宗教遺産巡りのコース

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(1マップ、2項目別、3概要別)

1、マップ・ナビの案内 2、項目別案内

3、概要付案内
① 頼朝が立ち寄った走湯神社
木造十一面観音立像(県指定文化財)
高水寺と走湯権現  志波郡の古刹である高水寺やその鎮守である走湯権現(現:走湯神社)が資料に登場するのは『吾妻鏡』が最初である。文治5年(1189)の奥州合戦の際、源頼朝が布陣した陣岡近くに高水寺や走湯権現があったからである。『吾妻鏡』によれば、頼朝は陣岡出発の当日同社に参詣している。また、鎌倉への帰途、坂上田村麻呂が宇佐神宮(大分県)から分祀した鎮守府八幡宮(奥州市)に参詣している。石清水八幡宮(京都府)が貞観元年(859)に創建される以前、源氏一門が崇敬する八幡神が胆沢郡鎮守府に勧請されていたことになる。

② 逆さカシワで名高い勝源院

勝源院山門
日詰の名刹・勝源院 勝源院は、日詰町の旧習町に山門を構える来迎寺ととともに、長い歴史と格式を誇る名刹である。現在は高水寺城跡の城域に境内を構えているが、平安時代末期に存在していたとする伝承がある。近世初期に志波郡から多くの寺院が盛岡城下に移された。寺伝は、移転後の寺院不足を解消するため、盛岡藩の北松斎の計らいで花巻の雄山寺の末寺として開山した蟹沢庵が勝源院の前身とする。江戸時代の檀徒は地元日詰町が多いが、比爪館周辺の桜町村や南・北日詰村の農民が多かった。

③ 民間信仰を伝える来迎寺

来迎寺本堂
来迎寺とは  来迎寺は日詰町発祥の地といわれる習町に位置する浄土宗の寺院である。来迎とは、念仏行者の臨終の際に極楽浄土へ導くために阿弥陀三尊が諸菩薩を伴って迎えに来ることをいうが、浄土教諸宗では来迎という。寺伝によれば、和賀郡稗貫氏の家臣で亀ケ森館(花巻市)の八木沢外記が開基した寺院とする。八木沢氏の没落後、志波郡佐比内村から桜町村に移転したが、寛永12年(1635)、日詰町の現住地へ移転した。大迫・佐比内など金山との関わりがあったのだろうか。 


④ 官社だった志賀利和気神社

志賀理和気神社参道
最北に位置する式内社  志賀理和気神社は、古代東北開発の時代に神階を授けられ、『延喜式』の「神名帳」に記載された神社(式内社)としては全国最北に位置する。境内に霊石の赤石を祀っているため「赤石神社」の通称で親しまれている。社伝では坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である香取・鹿島の二神を勧請合祀したと伝える。当時、我が国最北の郡である志波郡で一社だけの「斯波郡一座」としての格式と長い歴史を有する神社である。志波城が造営され、城辺鎮護や移配民の保護を祈念するために神階が授与されたと考えられる。             

⑤ 羽黒堂があった新山神社

新山神社奥宮拝殿
新山と新山神社  新山神社は、奥羽山系の新山(標高約552m)の山頂に位置する。新山神社はかつて新山権現と呼ばれた時代があった。現在の山頂には電波塔やゴルフ場があり、かつての聖域・霊山の面影はない。新山権現の周辺にはその別当寺である新山寺の堂塔や坊舎が複数存在したことが礎石などから確認されている。新山権現は、紫波町東部の赤沢白山権現と同じように、山王海や滝名川周辺の産金地の鎮護のために勧請されたと考えられている。

⑥ 准てい観音像を祀る沢口観音堂

沢口観音堂
沢口観音堂とは  八戸藩初代藩主南部直房の次男直常が18歳の若さで病死した。天和2年(1682)の三回忌に当たり、八戸藩が准胝観音像を造立し、礼拝供養のため建立した堂宇が沢口観音堂の前身である。当初の建立場所は定かではないが、貞享5年(1688)の棟札には「志和土舘村観音堂」とあり、志和に建立されている。嘉永5年(1852)の棟札に初めて「沢口」という地名が堂名(澤口観世音菩薩御宝殿)に入っている。大正13年(1924)の棟札から、旧八戸藩主南部子爵家や地域の住民の喜捨によって再建されたことが知られる。              

⑦ 志和群鎮守・志和稲荷神社

巨大な志和稲荷神社の一の鳥居
志和郡鎮守  志和稲荷神社は、紫波町の西部山麓に鎮座する神社で、近くを滝名川が流れる。樋爪氏・高水寺斯波氏・盛岡南部氏など累代の領主から崇拝と保護を受け、近世期には石高制社会を背景に「志和郡鎮守」に位置付けられた。五穀豊穣や生業・生活全般の神として広く他領農民にまでその神徳が知られ、「志和のお稲荷さん」として領民信仰の中心となった。また、盛岡藩領内の「水上之御神」として海岸部まで信者が拡大した。江戸後期には盛岡城下から同社に至る参詣道や一里塚が整備されている。     

⑧ 白きつねで名高い志和古稲荷神社

志和古稲荷神社参道入口
社名が伝える古くからの神社  志和古稲荷神社は、志和稲荷神社とともに「志和稲荷両社」として志波郡累代の領主の崇敬と保護を受け、古くから「古稲荷さん」と呼ばれ親しまれてきた。往古からあったことは社名が示しているが、郡内では志和稲荷神社とともに江戸時代から祭神(稲倉魂命)を明確にしていた数少ない神社である。古稲荷神社は、藩政時代には「古稲荷」あるいは「志和古稲荷大明神」と呼ばれていた。かつて志和松本にあった高水寺斯波氏の菩提寺源勝寺は「稲荷山源勝寺」と称し、志和古稲荷社を鎮守にしていたと伝える。             

⑨ 志和通総鎮守・志和八幡宮

志和八幡宮朱の両部鳥居
志和八幡宮  奥羽山脈の東山麓に広がる志和・水分地区は、志和八幡宮・志和稲荷・志和古稲荷・新山・水分神社が集積し、神域と呼ぶにふさわしい景観を醸し出している。志和八幡宮は、社伝では前九年合戦の際に源頼義・義家父子が戦勝祈願し、正月未明に大篝火を焚き上げて戦勝を祝ったと伝える。正月5日御勧日(五元日)に社前に大篝火を焚き上げる五元日祭はその名残で、300年以上の歴史があるとされる。奉納する裸参りは著名な地域の伝統行事である。年2回、地元有志による蚤の市が開催される。            
⑩ 水神を祀る水分神社

水分神社(奥宮)拝殿
水分神社  水分神社は、台形の山容から「こたつ山」と呼ばれる東根山の山麓に位置する。山裾には針葉樹の森、また中腹から山頂には豊かな湧水をもたらす広葉樹の森が広がり、周辺の穀倉地帯を潤している。水分神社は、志和稲荷・志和古稲荷とともに「志和の三社稲荷」と称され、古くから農民の信仰の礎になってきた。山麓の奥宮周辺では樹齢およそ700年とされる杉の巨木が群生している。盛岡藩では志波郡の水田経営を保護するため、水源地のかん養として雫石地方の山林を「水の目御山」に指定し、立入や伐採を禁じていた      


⑪ 八幡堂と呼ばれた蜂神社

歴史公園として整備されている陣岡陣営跡
蜂神社と陣岡  蜂神社は、「陣岡蜂杜」として『吾妻鏡』に登場する長い歴史がある神社である。文治5年(1189)の奥州合戦の際に源頼朝が逗留した「陣岡蜂杜」は、現在の蜂神社の前身と考えられている。神社が鎮座する陣岡は、高水寺城跡の北西の田園地帯に位置し、20mほどの比高で南北に長い独立した丘陵である。古来より多くの武将がこの地に陣を敷いている。陣岡は各時代の歴史が凝縮された陣営跡として「陣ケ岡歴史公園」として整備されている。蜂神社を式内社である志賀理和気神社に比定する考えもあるが、定かでなない。          

⑫ 平安仏を祀る正音寺

正音寺山門
平安仏と正音寺  産金の地・赤沢は、隣接の佐比内とともに、有数の産金地と知られる一方、北上高地の山地周縁に分布する起伏量の小さい丘陵地部分では多様な山の信仰を育んだ。僧や行者は山に登拝し地主神と出会い、霊地として祀ることで聖地や修行の場に発展した。祠や寺が建立され、神と仏は融合し、人々の信仰の対象となった。遠山正音寺は、高水寺城斯波氏の開基を伝える志波郡内でも長い歴史を持つ曹洞宗の寺院である。この正音寺の収蔵庫には平安仏といわれる木造毘沙門天立像と五大明王像が安置されている。                     

⑬ 産金地赤沢に建つ白山神社

五枚平金山跡(佐比内)
産金地・赤沢  近世初期の盛岡藩において、志和郡東部の金山地帯は、小友金山(遠野市)や白根・尾去沢金山(秋田県鹿角市)とともに屈指の産金地として知られていた。志波郡の産金地とは、佐比内・赤沢・舟久保を結ぶ一帯の金山地帯である。平泉藤原氏の時代にこの地域の産金に関する記録は確認できないが、『台記』(藤原頼長の日記)によれば、同時代に気仙の本吉庄・奥羽山脈栗駒山麓の高鞍庄の金が摂関家に献上されていたことが知られる。赤沢地区の各集落は、金山開発のためにこの地域に入植した人々によって形成されたと考えられる。  

⑭ 七仏薬師像を祀る赤沢薬師堂

七仏薬師像を祀る赤沢薬師堂

赤沢薬師堂とは  赤沢白山神社は音高山に鎮座している。この音高山(標高260m)の南麓に赤沢薬師堂が建つ。この薬師堂には平泉藤原氏の時代の作と推定される平安仏である七仏薬師如来立像が安置され、今も地域の人々の信仰を集めている。音高山一帯は古
くは白山神社の別当寺である蓮華寺が一大伽藍を構え、赤沢地区の仏教文化の中心であったと考えられているが、近世期以前に廃寺になった。蓮華寺は現在の白山神社境内にあった可能性があるが正確な場所は特定されていない。赤沢薬師堂は、蓮華寺付属の堂宇と考えられる


⑮ 佐比内金山とキリシタン遺産

佐比内キリシタン墓碑
キリシタン墓碑と佐比内  佐比内・赤沢・長岡など紫波町東部は有数の産金地帯だった。佐比内地域には10か所以上の金山跡がある。キリシタン信者は、探索が難しいとされる鉱山地区に潜伏することが多く、金山が多い志波郡では盛岡藩領内でもキリシタン信者が多かった地方である。佐比内にはその信仰の足跡であるキリシタン遺跡(墓)などが残されている。これらはキリスト教禁教政策の下で、一人の指導者もいないなかで、ひそかに信仰を守り続けた人々の極めて稀な信仰の形であり、その歴史を物語る数少ない宗教遺産である。            

⑯ 「あおそ」を社名とする遠山青麻神社

青麻神社鳥居
遠山青麻神社  遠山青麻神社は、国道396号線沿いの道の駅「紫波」の近くに位置する。両部鳥居や長い石段、奥深い広?な境内地は独特の神域感を感じさせる。有数の果樹生産地帯である赤沢は、かつては隣接する佐比内とともに産金の中心地であり、産金鎮護を祈願する多くの寺社が集積する聖地でもあった。社名の青麻(=青苧)は、日本列島の山野に自生する苧麻という植物から取り出した繊維で、苧とも呼ばれる。同社は、「中風除け」にご利益があることで知られ、藩政時代は講が結ばれ参拝者が多かった。    

⑰ 是信が拠点にした彦部

是信房廟所
是信  是信は、鎌倉時代初期に県内に初めて浄土真宗を布教した僧である。浄土真宗の開祖である親鸞の弟子となり、「親鸞二十四輩」の一人に数えられている。是信は、常陸国稲田郷に滞在中に親鸞から東北地方の布教を託され、従者の千原長左衛門・橋本左内とともに和賀郡万塩(近世では一つ柏と記録)に定住したと伝える。後年、布教の拠点を志波郡に移して彦部本誓寺を開山し、盛岡本誓寺の発祥となった。和賀地方には是信の事績にまつわる伝承や火葬塚である上人塚が残り、彦部の是信房墓所はその廟所である。町指定史跡である。        


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