宗教遺産巡りコース

C 官社だった志賀利和気神社

 志賀理和気神社手水舎(ちょうずや)
官社になる  『文徳実録』によれば、仁寿2年(852)に志賀理和気神社に正五位下を加えたと記録されていることから、新規に神階を授けられたのではなく、既に位階をもった官社であったことが確認できる。同社は神社としての位階は高くはないが、地元民が祀る在地神が官社に組み入れられたことに歴史的な意義がある。坂上田村麻呂は在地神の神威を借りて東北開拓を進めている。同社への神階の授与や位階の加増の背景には、在地神を信奉する志波地方の人々の開拓への協力や稲作を中心とする農業の飛躍的な発展への報謝があったと考えられる。


  志賀理和気神社本殿
志賀理和気神とは  神社の由緒や祭神は記録を焼失して不明である。古記録では祭神を「志賀理和気神」とし、香取・鹿島の二神を「斯波加里の郷鳰が磯野」の志賀理和気神に勧請合祀したと伝える。神名の「志賀理和気」は、氷の方言の「シガ」、狩猟用語の「シカリ」、宮城県地方の「志波神」、道祖神の「柴神」などの説があり、上毛野氏や物部氏の関与も想定される。勧請合祀する前の主神はどこに祀られたのだろうか。水分神、船霊神、赤石神、多賀城近くにもある浮島明神・志波神などが考えられる。 


 志賀理和気神社霊石(赤石)

移された赤石  赤石大神明の別当寺である遍照寺の廃寺後、俗人別当がしばらく祭祀を継承していた。享保8年(1723)、改めて光林寺が赤石七社の別当寺に指定され、90余年ぶりに遍照寺が再興された。『篤焉家訓』によると、この時、赤石大明神の神体の「赤石」は光林寺に移されたという。その赤石とは別な赤石が社殿に祀られていたとの伝承もある。『真澄遊覧記』によれば、当時の社殿は北上川に面して東向きであったが、弘化3年(1846)の村絵図面では西向きになっている。安永3年(1774)の社殿の炎上後に向きを変えたと考えられる。


  志賀理和気神社例大祭山車
再興された神社と例大祭  志賀理和気神社は、江戸時代初期には地元民でもその所在が分からないほど荒廃し、棟札から探し出したという。元禄16年(1703)には藩命によって社殿が再建され、盛岡藩主や郡山の豪商らの崇敬を背景に式内社の由緒を復活させ、初の祭典が執行された。盛岡藩の公式記録では、赤石七社明神の祭礼執行の伺いが寺社奉行宛てに出されており、盛岡八幡宮例大祭より古い起源を伝えている。同社の城下祭礼は、山車行事などの祝祭と結びつき、一般町人の祭りへと変化しながら当地方の祭礼文化を先導してきた歴史をもつ。