宗教遺産巡りコース

N 佐比内金山とキリシタン遺産

  「叶」(口+十)を象ったとされる蔵の家紋
佐比内のキリシタン  キリスト教の布教はもともと公認されていたが、豊臣秀吉は「バテレン追放令」を発令した。その狙いは外国人と諸大名の貿易を制限するための措置とされる。キリシタンの家には仏壇や神棚が祀られ、表面上は仏教徒として振舞っていた。絵や漢字を使って十字架を表現し、小規模な信仰組織を維持するとともに既存の社会・宗教と共生しつつ、密かに信仰を続けていた。彼らはなぜこの信仰を守ってきたのだろうか。先祖たちが大切に守り続けてきた信仰を絶やしてはならないという形を変えた先祖供養だったかもしれない。



キリシタンを禁ずる高札(複製)
江戸幕府の禁教令  江戸幕府も秀吉の政策を踏襲し、慶長17年(1612)に禁教令を発令している。さらに寛永14年(1637)の島原の乱の前後から徹底した教禁策や取締を実施した。これも大名による貿易制限が主眼であったが、貿易港を開き完全な鎖国状態ではなかった。盛岡藩の「御領分高札集」によれば、天和2年(1682)にキリシタンを禁ずる高札が郡山二日町、日詰、大日堂、犬渕、佐比内に立てられた。キリシタンを密告した者には賞金を出し、逆に隠匿して露見した場合は、肝入(名主)・五人組・一族まで厳罰に処する規定であった。


  佐比内キリシタン墓碑

責任を問われた盛岡藩主  藩政時代の盛岡藩領内では100以上の金山が開発された。佐比内の朴木金山は、白根金山(鹿角市)とともに近世初期に盛岡藩の財政を支えた有数の金山であり、産金は佐比内地区の大きな生業になった。幕府日記によれば、寛永13年(1636)、盛岡藩主南部重直は、武家諸法度に定められた 4 月参勤への遅参などを理由に処分を受けている。キリシタン取締りの不徹底もその理由の一つとされるが、一次史料からは確認できない。その後、藩は従来の方針を変えて鉱山にも厳しい手入れを行い、佐比内でも多くの信徒が検挙された。


   佐比内小児童によって継承される佐比内金山太鼓
受け継がれる遺産 かつて産金で栄えた歴史をもつ佐比内では、産金に従事した人々の郷土色豊かな民俗芸能が現代に受けつがれている。金鉱石をザルで精選する作業(からめる)の所作を特徴とする「金山踊り」・「からめ節」もその一つである。毎年8月に開催される「佐比内金山祭」では、「金山踊り」や、地域が一丸となって誕生させた創作太鼓である「佐比内金山太鼓」が披露される。この金山太鼓は、佐比内小学校の児童によっても引き継がれている。地域の歴史は、地域が守り、伝えるという地元民の熱意が伝わってくる。