宗教遺産巡りコース

J 八幡堂と呼ばれた蜂神社


蜂神社参道入り口の鳥居
神社の沿革  盛岡藩の記録では、藩政時代は「八幡堂」と呼ばれ、「陣ケ岡之御山之上ニ先年勧請 御村中之生神と申候」と記録され、俗人別当の社堂であったとする。『紫波郡神社明細帳』では、陣岡は天喜4年(1056)に源頼義が本陣を置いたことが名称の由来で、合戦が終了した康平5年(1062)に戦勝の報恩として蜂神社を建立したと伝える。蜂社が八幡堂に変遷する経緯は不明であるが、八幡神を氏神として崇敬している源氏の武神を地元民が生神として祀ったものと考えられる。明治元年(1868)に旧社号である蜂神社に改称した。



蜂神社拝殿
再興された蜂杜  蜂神社は、『吾妻鏡』では「蜂社」ではなく「蜂杜」と記録されている。神社の二文字を「もり」と読む『万葉集』の影響だろうか。康平5年(1062)に源頼義が戦勝の報恩として蜂社を建立したとすれば、その後の鎌倉幕府や源氏一門である高水寺斯波氏によって保護されるべき神社と考えられる。しかし、近世初期に宮手村の鎮守である「八幡堂」として再興された事実から「蜂社」は荒廃していた可能性がある。荒廃前は純粋に蜂を祀る神社だったかもしれない。近世初期に源氏の創建伝承をもとに八幡堂を鎮守社として再興したと考えられる。


日の輪・月の輪がある濠入り口
前九年合戦とは  志波郡を含む北東北の奥六郡を本拠にした安倍氏が衣川の南に進出したことが戦乱の契機になった。陸奥守として派遣された源頼義・義家親子と安部氏との合戦は、頼義が奥州に赴任した永承6年(1051)から安倍氏が滅亡した康平5年(1062)までであり、元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれていた。頼義の国府着任後、大赦があり休戦状態にあったが、天喜4年(1056)に安倍頼時の長男貞任が頼義一行を襲い、合戦が再開された。源頼義が本格介入し、実際に交戦があった9年間が名称の由来となっている。



蜂神社拝殿の「八幡宮」と記載された扁額
前九年合戦と神社の沿革  神社には多くの神が祀られ、由緒もさまざまである。『延喜式』の「神名帳」に記載された式内社では、その祭神に古事記・日本書紀に登場する神をあてている神社は少なく、多くは在地神や地名を神名としている。ところが紫波郡には、近世期には祭神や由緒を不明としながら、明治期に入って坂上田村麻呂や源頼義の勧請・再興を伝える寺社が多い。なぜだろうか。これらの寺社の多くは、明治期の復古思想を基調とする政策によって、祭神を「記紀神話」の中に求め、由緒については所伝や口承によって書き上げているからである。