宗教遺産巡りコース

E 沢口観音堂と准てい観音

 沢口観音堂の扁額
沢口観音堂はなぜ志和の地に  初代八戸藩主南部直房の夫人は、岩手郡川口館主の川口源之丞正家の娘で、夫の死後に出家し「霊松院」と称した。「霊松院」は2代藩主直政と病死した直常の生母である。沢口観音堂が志和に建立されたのはなぜだろうか。霊松院の生母(耕雲院)は、旧高水寺斯波氏家臣の朝倉氏の娘で、志和地区には霊松院や病死した直常の知行地(領地)があった。また、当時の武士は知行地に寺院を開基し、菩提寺とすることが多かった。先祖ゆかりの地であり、江戸への参勤途中にある志和の知行地が適地とされたのだろう。


   沢口観音堂准胝観音菩薩坐像

准胝観音とは  准胝観音は、数多い仏像の中でもあまり聞きなれない存在である。准胝観音は、「准提仏母」・「七倶胝仏母」とも呼ばれ、衆生救済のため無数の仏をうみ出す「諸仏の母」という意味があり、延命や病気治癒、安産や子を授ける観音として信仰されてきた。准胝観音菩薩像の特徴は、経典では2臂(腕やひじ)から84臂まで説かれるが、18臂の立像が多い。真言宗系では人道を救済する六観音に数えるが、天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類される。



沢口観音堂准胝観音菩薩坐像
沢口観音堂の准胝観音菩薩坐像  一面八臂の像で、頭上に二段の宝冠を頂き、蓮華坐に坐している。8本ある手のうち合掌する真手の2本以外の脇手は、左手に錫杖・宝剣・宝弓、右手に三鈷杵・未敷蓮華、宝箭(矢)の持物をもつ。全体的にやわらかい表情で、ふくよかな姿が女性の菩薩らしい優しさと美しさを醸し出し、荘厳優美な像といえる。江戸時代前期の制作である。この准胝観音の胎内から巻子が発見され、「沢口観音縁起」と呼ばれる内容である。


沢口観音堂棟札(表・裏)

盛岡藩と八戸藩  寛文4年(1664)、盛岡藩3代藩主の南部重直は後継を定めないまま死去したため、南部家は家名廃絶の危機を迎えた。江戸幕府は盛岡藩領10万石を重直の二人の腹違いの弟に分割する裁定を下した。10万石のうち重信(七戸隼人)が8万石盛岡藩を相続し、残り2万石を直房(中里数馬)に分地した。この裁定により南部直房を初代藩主とする2万石の八戸藩が誕生した。寛文8年(1668)、父の急死により8歳で2代藩主となった直政は、その優れた学才が認められ、元禄元年(1688)、5代将軍徳川綱吉の御側御用人に登用されている