宗教遺産巡りコース

F 志和群鎮守・志和稲荷神社

  志和稲荷神社拝殿
神社の沿革  社記によれば、前九年合戦の際、源頼義が陣岡に滞陣中に勧請し、樋爪俊衡や足利(斯波)家長の社殿再建を伝える。志波郡領主斯波氏の祈願所として代々崇敬され、戦国末期には斯波詮直が社殿を造営し、棟札が残されている。盛岡藩の記録では、志和稲荷神社(別当成就院)は稲荷宮と呼ばれ、十一面観音を本地仏として稲倉魂命を神号とし、稲荷山玄狐寺を山寺号とした。明治期に主祭神を宇迦之魂命に変えている。「志和稲荷宮は志加理和気の社にて、道祖神也」という説も残されている


  朱で彩色された志和稲荷神社「稲荷塗」の鳥居

歴代領主の保護を受けた神社  志波郡領主斯波氏の菩提寺であった源勝寺は、山号を稲荷山と称していたことから、志和稲荷神社は古くから高水寺斯波氏が崇敬・保護したと考えられている。戦国末期に斯波詮直が大旦那として本殿の造営を行い、当時の棟札が残る。近世期に入って、稲荷神を深く崇敬した盛岡藩主南部氏は、志和稲荷神社を祈願所とし藩主直拝や代拝を行うとともに、社領の寄進や社殿を造営するなど手厚く保護した。盛岡南部氏は奥羽山脈寄りの参詣道を改修し、境内には参詣の折の休み処である「御成所」を整備した



志和稲荷街道水分一里塚
志和稲荷街道の整備  志和稲荷街道は、天保5年(1863)に日光街道になぞらえた参詣道として新規に開削・修復され、翌6年に完成した。この脇街道は、旧津志田村(盛岡市)の川久保から西部山麓を経て稲荷宮に至る約16qの距離で安倍道を根幹にしている。この普請は、盛岡藩主南部利斉の手許金(内幣金)を原資に、参詣道のほか農業用水路やため池が整備された。この普請は天保大飢饉で疲弊した農民や村を救済する機能を担った。一里塚建設などの費用の一部は地元の村が負担し、赤林・和味・水分に一里塚が現存し、松並木も一部残っている。


 志和稲荷神社の耳が欠けた狐像

稲荷前の水争い  滝名川・葛丸川によって形成された紫波扇状地は、有数の穀倉地帯である。滝名川の流域面積は水田面積に比べて少なく、水不足の常襲地帯であった。滝名川は志和稲荷神社前で本流滝名川と支流高水寺堰の二つの水系に分岐される。この分水点は「稲荷大口前」と呼ばれ、水系同士の間で悲惨な水争いが繰り返された。神社前にある耳が欠けた眷属(神意を代行する一族)の狐は、多数の死傷者を出した当時の水争いの壮絶さを今に伝える物言わぬ証人である。水争いの歴史は山王海ダムの完成によって終止符が打たれた