五郎沼薬師神社

 薬師神社

薬師神社は、比爪館跡区画の南西部に鎮座している。創建時期や由来は定かではない。社伝によれば、樋爪俊衡が国家安穏・武運長久の祈願のために勧請したと伝えている。
薬師神社は、現在は本殿・幣殿・拝殿・社務所のほか、神前で奉納される神楽や舞が行われる神楽殿を構えており、地方の神社としては格式を重視した歴史ある神社といえよう。


 薬師神社は、盛岡藩の記録によれば、江戸時代は「薬師堂」と呼ばれる三間四面の萱葺(かやぶき)であった。薬師堂とは、薬師如来を本尊とする仏堂の呼称である。当時においてもその由緒は不詳とされている。薬師神社は、寛永年間(1624~1644)に盛岡藩三代藩主南部重直、享保年間(1716~1736)に同八代藩主南部利視によって再興されていることが知られる。また、同じ記録から、当時の薬師神社は、寺院持社堂として分類され、盛岡城下に移転した大荘厳寺持ちの社堂として把握されていた。
薬師神社は、樋爪氏が比爪館の一画に勧請したとの伝承がある。これが事実とすれば、建立当初から神仏習合思想の影響を受け、大荘厳寺とは鎮守社と別当寺の関係にあったと推察される。神仏習合とは、日本古来の神祇信仰と仏教信仰が混淆(集合)し、一つの信仰体系として再構成されたものである。
神仏習合の歴史は、奈良時代には神々も人々と同じように仏法による救済を必要とするという考え方から、「神宮寺」と呼ばれる寺院が神社の境内や隣接場所に建立された。さらに、神は仏法を守護する存在であるとする考え方から、仏法を守護する「鎮守社」と呼ばれる神社が寺院境内に建立されるようになった。このように神と仏の距離が縮まっていく過程で、平安時代後期頃に「本地垂迹説」という考え方が成立していった。本地垂迹説とは、本体たる仏が衆生救済のために、仮に神の姿となって現れたものだとする思想である。
中世後期以降、仏法を守護する鎮守社は、地主神と習合、混同され、邸宅・城郭などにも祀られ、また氏神・産土神と同一視され、村落においても祀られるようになり、神社一般をさすようになった。

五郎沼の薬師神社の祭神は、少彦名命(すくなびこなのみこと)とされている。『日本書紀』(神代上)によれば、少彦名命は、「療病」・「禁厭」(まじない)の法を定めたとされ、古くから医薬・農耕・酒・温泉開発の守護神として広く祀られた。
薬師如来の信仰は古く、薬師如来の信仰は古く、推古天皇15年(607)に推古天皇と聖徳太子が用明天皇の病気平瘉の遺願を継いで薬師如来像を造像し、天武天皇9年(680)には天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平瘉のために薬師寺の建立を発願したことはよく知られている。仏教の薬師信仰が進行する過程で、医薬の仏として信仰を集めた薬師如来と習合したとされている。薬師神社は、江戸時代に薬師如来像を本地仏とし、何らかの神霊を勧請して、何らかの神号(権現・明神)を称し、大荘厳寺が別当職を務めていたと推測される。
明治期の一連の神仏分離政策によって、薬師堂別当の大荘厳寺は廃止され、薬師堂は「薬師神社」と名称を変え、地域の鎮守社としての機能を果たしていった。