比爪館地区(赤石)⇒五郎沼遺跡⇒大荘厳寺跡⇒五郎沼経塚⇒延文六年供養碑⇒善知鳥館跡⇒北条館
五郎沼遺跡
アイテムデータがありません。
大荘厳寺跡
-
大璋荘厳寺の境内地は、南日詰字箱清水の紫波町指定史跡「樋爪館跡」に鎮座する、薬師神社の周辺であったと推測されます。
大荘厳寺は、比爪館の構成要素として、「政庁」、「御所」とともに造営された「寺院」です。奥州藤原氏の滅亡後も大荘厳寺は存続し、中世を通じて、比爪館のあった箱清水地内に所在し続けました。そして、大荘厳寺は近世初頭に、盛岡城下建設にあたって盛岡市加賀野に移転させられ、比爪館ゆかりの地における大荘厳寺は途切れます。さらに、盛岡大荘厳寺は明治初頭の廃仏毀釈で廃寺になっています。
― 紫波町観光交流協会公式サイト 歴史文化 ―
----------------------------------------------------------------
大荘厳寺は、薬師堂の付属寺と言い伝えられ、いまの薬師神社の近くにあったと考えられています。俊衡が、頼朝に安堵されたあと、蓮阿と名乗り大荘厳寺に居住したという説もあります。その後は、斯波氏によって保護されたと伝えられています。
斯波氏が南部氏に滅ぼされた以後、南部藩では、盛岡城下を整備する際、盛岡の守りとするために各地の主要な寺院を強制的に移転させました。大荘厳寺もその一つですが、明治の神仏分離令で廃寺となっています。
現在の沼の北端には、石碑に刻まれたものとしては県内最古の不動明王絵像碑(県指定文化財)や、碑爪五郎季衡の墓と伝えられる。石碑(板碑)などが並んでいます。
「紫波の歴史は面白い!!」 (紫波町平泉関連史跡連携協議会2008)―
--------------------------------------------------------------
大荘厳寺は、比爪館の構成要素として、「政庁」、「御所」とともに造営された「寺院」です。奥州藤原氏の滅亡後も大荘厳寺は存続し、中世を通じて、比爪館の故地である箱清水地内に所在し続けました。そして、大荘厳寺は近世初頭に、盛岡城下建設にあたって盛岡市加賀野に移転させられ、比爪館故地における大荘厳寺は途切れます。さらに、盛岡大荘厳寺は明治初頭の廃仏毀釈で廃寺になっています。このように、比爪館故地からの移転と、廃仏毀釈による盛岡大荘厳寺の廃絶によって、奥州藤原氏時代の大荘厳寺の様相が理解しづらい状況になっています。
現在、比爪館の区画内部の南西側には「薬師神社」が鎮座しています。この薬師神社は大荘厳寺の「鎮守社」と推測されます。「鎮守社」とは、寺院境内地の土地の神を祀る、寺院内に設置される神社のことです。大荘厳寺の盛岡移転の際に、土地神を祀る鎮守社は故地に残されたものと考えられ、薬師神社の周辺が、大荘厳寺の境内地であったと推測できます。
また薬師神社南側の箱崎家(屋号・後松原)の敷地内には阿弥陀堂があり、大荘厳寺ゆかりとされる阿弥陀如来座像が安置されています。後松原箱崎家に伝わる大荘厳寺から渡された天保二年(1831)の「遺證文」から、後松原箱崎家の屋敷地が「阿弥陀堂故地面」と称されていたことが読み取れ、移転前の大荘厳寺の阿弥陀堂が、屋敷地付近に所在したことを示しています。
また、薬師神社の西側から後松原箱崎家の屋敷地北西付近には、「金比羅池」という池があったと伝承されています。実際、この付近は周囲に比べて標高が不自然に低くなっており、その範囲の西側には土塁状の高まりが確認されており、人工的な造成の「池」が想定される地形を呈しています。この地形の西側で、平成24年度の比爪館30次調査により、池の岸らしき掘り込み跡が紫波町教育委員会により検出されています。県立博物館考古部門が、平成25年度にこの周辺の地形測量をおこない、10㎝ごとの等高線の微細な地形図を作成しました。その結果、約100m四方の広がりを持つ池に相当する形状と、その西端に楕円形の島状の地形の高まりが浮かびあがりました。この規模、形状は平泉の無量光院と同規模の阿弥陀堂浄土庭園が想定できる地形です。西側の土塁状の高まりは、無量光院の金堂が建つ西島に酷似した規模、形状です。これらのことから、この比爪館区画内部の南西部が大荘厳寺の寺域の中心で、その形態は、園池を有する浄土庭園型式の寺院と推測されます。そこに建つ中心仏堂は阿弥陀堂と推測されます。
― 岩手県立博物館テーマ展「比爪‐もう一つの平泉‐」―
-----------------------------------------------------------------
斯波郡に大荘厳寺と称する寺院のあったことは、諸書の伝えるところである。その位置については、従来、南日詰の五郎沼北側接続地と伝えられてきたが、寛文十二年(1672)書上げの村高帳によると、北日詰村と南日詰村の両村にわたって大荘厳寺領のあったことが知られるし、伝承地内には十基ほどの古碑群(石卒都婆)をのこして寺院遺跡を思わせているから、この所伝は信じてよいように思われる。
創立の時期は不明であるが、地内に現存する石卒都婆の中には、正応五年(1292)・正和六年(1317)・元亨三年(1323)・延文六年(1361)の記年のものがあることからみて、鎌倉時代の創建を考えてもよいように思う。もちろん、石卒都婆の存在を直ちに寺院の存在を断定することは早計であるが、それであっても、該地の場合は、寺地域の聖地に建立されたとみる方が妥当なように思われる。
南部藩では、盛岡城下の建設が進行するにつけて北山などの外郭地帯に寺院を集中し、ここに寺院センターを形成した。しかし、盛岡は新開地であるから、古くからの寺院があるわけがない。その大部分は、領内の由緒のある寺院を移転したものである。当地域でも、高水寺・本誓寺・広福寺・大荘厳寺・源勝寺・新山寺の六ヵ寺がこの時期に移転された。既述のように、いずれも志和郡きっての古刹であった。
南日詰村大荘厳寺と上土舘村新山寺の移転時期を考える資料は得られないが、有名寺院の盛岡移転はほとんど利直・重直の代に行なわれているから、両寺もその例外ではなかったと思われる。他の四ヵ寺と同様、慶長から寛永ごろにかけての移転であろう。両寺共、外加賀野に隣り合って寺域を賜わった。なお、大荘厳寺は南日詰村薬師社の別当を兼ね、新山寺は上土舘村(八戸藩分封後は宮手村の飛地)新山権現社の別当を兼務した。いずれも、志和郡にあったころの鎮守社である。前者は山号を南池山と称し、後者は池峯山と号した。
以上の外、当時、盛岡に移転された寺院には、三戸郡の聖寿寺・永福寺、稗貫郡の妙泉寺、上閉伊郡の東禅寺等があったが、地域的には当地域からの移転が圧倒的に多かった。このように、領内の有名寺院を盛岡城下に集中した背景には、新開都市の発展政策という一面もあり、あるいは藩主自身の信仰心に発する面もあったろうが、それと同時に、占領地の有力寺院を足下にまとめて、直接の監視下におこうとする意図もあったと思われる。特に当地域寺院の場合は、旧領主斯波氏との結びつきが強かっただけに、なお一層その公算が大である。
これらの諸寺院が、当地域にあってどのような役割りを果たしたかは明確でないが、藩によって盛岡へ移転されたという一事だけからみても、何らかの点で大きな存在価値をもっていたことは否定できない。おそらく、信仰や教化の面で果たした役割りも決して少なくなかったのであろう。それだけに、盛岡への移転は、地域的には一つの損失であったとみられる。
― 「紫波町史第1巻」(紫波町1972.3.25)―
-------------------------------------------------------------------
ふるさと 紫 波 愛 着 と 誇 り
郷土への思いを込めて 遺跡標柱に あなたのお名前を!
紫波町観光交流協会では、史跡・遺跡等の所在地を示す案内標柱設置に協力くださった方の、お名前を標柱に記入しています。
五郎沼経塚跡
-
国道4号線沿いの五郎沼南東部堤体の小高い場所にあり、沼の向うに紫波三山が連なり、北西奥に岩手山が遠望できます。
五郎経塚は、昭和9年に「恩賜の郷倉」建設の際に偶然発見された経塚です。その具体的な地点ははっきりしていませんでしたが、比爪館に南接する五郎沼の南東岸に所在したと推測されます。国道4号沿いの五郎沼の東側の堤に連続する形で自然地形の小高い丘があり、ここに所在していた民家の屋号が「ごうそう」と称されており(現在民家は撤去)、この地点が経塚の造営場所と考えられます。比爪館の南方に相当する自然地形の高まりで、何らかの宗教的仮託がなされた地点と考えられます。
― 紫波町観光交流協会公式サイト 歴史文化 ―
-------------------------------------------------------------------
五郎沼経塚は、昭和9年に「恩賜の郷倉」建設の際に偶然発見された経塚です。その具体的な地点ははっきりしていませんでしたが、比爪館に南接する五郎沼の南東岸に所在したと推測されます。国道4号沿いの五郎沼の東側の堤に連続する形で自然地形の小高い丘があり、ここに所在していた民家の屋号が「ごうそう」と称されており(現在民家は移転)、この地点が経塚の造営場所と考えられます。比爪館の南方に相当する自然地形の高まりで、何らかの宗教的仮託がなされた地点と考えられます。昭和26年5月刊行の「奥羽史談2巻2号」に、この経塚の発見時の様子が掲載されています。
―紫波郡赤石村― 五郎沼の経塚 畠山英一郎
(前略)・・五郎沼の経塚は享保年間、蛇轕塚と知られ紫波郡赤石村大字南日詰に在る。これは北側の古碑数基ある場所と反對に、南東の丘陵で昭和九年に郷倉建設の爲地下を掘って判った。地下數尺の處に地盤を固めて周圍に石を置き、中央に経瓶を据え素焼と青銅の二重経筒に経文が納めてあった。経瓶の蓋上に魔除の短刀、石槨様の數個の川石があり、底は粘土を敷き木炭を入れ筒の上を葺石で盛っていた。百の史観もさることながら、これは實際の話である。紫波郡の歴史は・・(後略) 注 経筒と経文は現在小学校に保管、直刀及び青銅筒は■■方にある。― 岩手県立博物館テーマ展「比爪‐もう一つの平泉‐」―
-------------------------------------------------------------------
南日詰字箱清水の通称蛇の塚は、従来、後期の古墳と考えられてきたが、昭和九年に郷倉(備荒用の倉庫)敷地として破壊した際、経筒が出土したというから、実は経塚であったと考えられる。
― 「紫波町史第1巻」(紫波町1972.3.25)―
-------------------------------------------------------------------
本郡の古墳として今日まで知られて居るものは、赤石村大字南日詰五郎沼の蛇塚は享保年間に蛇(じゃ)轕(の)推(つか)として知られ、既に発掘せられて直刀を得たと稱されて居る。
― 「紫波郡史」(岩手県教育会紫波郡部会1926)―
-------------------------------------------------------------------
ふるさと 紫 波 愛 着 と 誇 り
郷土への思いを込めて 遺跡標柱に あなたのお名前を!
紫波町観光交流協会では、史跡・遺跡等の所在地を示す案内標柱設置に協力くださった方の、お名前を標柱に記入しています。
延文六年供養碑
-
国道4号線沿いの五郎沼北東部堤体上にあり、紫波町指定文化財「箱清水石卒都婆群」の板碑13基中の1基です。
延文六年供養碑は、高さ210㎝の長大なものであり、碑面上半部には薬研彫りで種子が大きく刻まれています。「バイ(薬師如来)」に涅槃点を加えた種子であり、「パク(釈迦如来)」にも似ますが種別が分からない種子です。
偈頌、あるいは願文と推測される文字が紀年銘の左右に二行ずつ、併せて四行刻まれています。不明瞭な部分が多くありますが、「行若ヵ成佛 千佛□□ 皆ヵ同ヵ□□ 六道迷法ヵ」と判読されます。紀年銘は「延文六年 辛丑 八月四日」と刻まれています。延文は北朝年号で、延文六年は西暦1361に相当します。
この碑には、土手の決壊を防ぐため人柱となった娘の悲哀と、後世これを弔う村人の行いが語られている「夜泣き石」の伝説や、佐々木喜善の「五郎沼から出た古碑」の伝承があります。
― 紫波町観光交流協会公式サイト 歴史文化 ―
--------------------------------------------------------------------
十三基の石卒都婆群が清水端、五郎沼東側及び北側、薬師神社境内に分散しています。
紫波町で最も古い正応五年(1292)三月二十三日と刻まれた碑は残念なことに盗難に遭い現在も不明のままです。このほか紀年名のあるものは正和六年(1317)・元亨三年(1323)・延文六年(1361)の三基ありますが、このうち元亨三年碑は県内最古の絵像碑として岩手県の文化財に指定されています。
付近一体は平泉藤原氏の一族比爪氏の館跡であり、滅亡して間もなくの創建が想定される廃寺大荘厳寺との関連も取り沙汰されています。
―「わたしたちの文化財」(紫波町教育委員会1993)―
--------------------------------------------------------------------
五郎沼には、「夜泣き石伝説」というものが伝えられています。沼の北端から100㍍ほど進んだ東側の土手に大きな石が立っています。地上に出ている部分だけでも2㍍以上、さらに数㍍土中に埋まっているといわれますが、それにちなんだお話しです。「造った当初、五郎沼はよく決壊しました。村人は水神の怒りを鎮めるために人柱立てることになり、選ばれた農家の娘が土手に生き埋めにされました。巨大な石は、その供養として立てられたのです。おかげで土手の決壊はなくなりましたが、不思議なことが起こり始めました。夜に石の近くを通ると、シクシクという悲しげな娘の泣き声が聞こえるのですが、振り返っても誰もいません。こういうことが何度も起き、いつしか『夜泣き石』と呼ばれるようになりました。のちに、娘の遺体は大荘厳寺に移され、手厚く葬られました。
大正末期の泥さらいの際には、鎮魂の儀式が行なわれ、夜泣き石も現在の所に移設されたそうです。
― 「紫波の歴史は面白い!!」 (紫波町平泉関連史跡連携協議会2008)―
--------------------------------------------------------------------
当地域内に現存する石卒都婆の中で年号銘の確認されるものは十三基あるが、そのうちで最も古いのは正応五年(1292)のものであり、次いで永仁三年(1295)・乾元二年(1303)・嘉元三年(1305)・正和元年(1312)・正和六年・元亨三年(1323)・嘉暦二年(1327)・嘉暦四年・元徳三年(1331)二基・暦応四年(1341)・延文六年(1361)の順となっている。従って、当地域における石卒都婆の建立思想は、おおむね鎌倉時代の中期以降になって流行したとみることができよう。ちなみに、岩手県内での最古は、東磐井郡門崎の建長八年(1256)碑とされている。
付 記
1 南北朝時代の石卒都婆についてみると、暦応四年、延文六年といずれも北朝年号が用いられており、南朝年号のものは一基も見当たらない。このことは、前に述べた古町山薬師堂本尊仏の貞治五年銘と共に、当時、この地方が北朝の勢力下にあったことを証するものであり、北朝方としての斯波氏の実勢を傍証するものである。
2 南日詰の延文六年碑は八月四日に建立されたものであるが、同年三月二十九日をもって康安と改元されているから、八月四日は正しくは康安元年でなければならない。それを延文六年としているのは、改元情報が当地方に伝わるまでの時間的ずれによるものであろう。但し、これには、公武両派の抗争という特殊事情の含まれていることも考慮に入れなければならない。赤沢児童館裏側の磨崖碑は正和元年七月二十八日の建立であるが、正和の改元は三月二十日であるから、四ヵ月後には既に改元情報が伝わっていた例もある。
― 「紫波町史第1巻」(紫波町1972.3.25)―
--------------------------------------------------------------------
佐々木喜善の「鳥蟲木石傳」(佐々木1930)には、この板碑に関する伝承が記されている。「五郎沼から出た古碑 赤石村、五郎沼の北側、国道の傍に高さ一丈の古碑が建ってゐる。文字は摩滅して讀むことが出来ないけれども、附近ではかなり古いものらしい。これは矢張り五郎沼開鑿の際土中から掘出したものであると謂ふ。初めは只堤の上に投棄して置いたので、今から七八十年以前に村人が金毘羅供養塔を、字蔭沼と云ふ所に建てた時、その臺石にこの古碑を使った。其の當時近郷で相撲取りで名高かった陣ヶ岡といふ者、或夜其の石塔の前を通ふたところ、忽然と大入道が現はれて、此の者を取って投げつけた。さすがの陣ヶ岡も驚いて逃げ歸ったが、何しろ残念で堪らぬので、次の夜もその所を通ふると、また大入道のために投げつけられてしまった。陣ヶ岡も薄氣味がわるくなって、巫女に之を聴き合わせると、それは沼から掘り出した其の古碑で、俺は古より佛の供養として建てられたものだが、久しく地中に埋められて居り、後に掘り出されたと思うと、こんどは、金毘羅石の臺石とされた。それが残念で堪らぬから、お前を見込んで頼むから、どうか元の處に戻して建てゝ貰ひたいとのことであった。それからは現在の所に再建されてゐるとの事である。」この板碑を地元では通称「泣き石」としている。これは上記佐々木喜善の紹介「五郎沼の古碑」の話の中で、古碑が台石にされて悔しいので、「泣いた」ということなのであろうか。また、地元の方に中には、「この泣き石は他所から運ばれて来て移設されたものと聞いている。移設の際に泣き石が橇?に乗せられている写真を見たことがある」と語る方もいる。
平成23年に本碑が建つ五郎沼堤防付近の微細地形測量を岩手県立博物館考古部門が実施した。その結果、本碑が建つ地点は、堤のラインから南北11m、東西7mの広がりで東側に突出しており、標高も堤防の頂部より80㎝ほど高い塚状の地形であることが確認された。この塚状の地形は人為的な造成によるものと推測され、やはり仏教信仰に基づく造成された「塚」と考えるのが妥当である。その上に板碑が造立されることは整然性が有る。
佐々木喜善の「五郎沼の古碑」と地元の方の話を総合して解釈すると、「元来は、現地点の堤防から突出する塚の上に板碑(倒れていたか)は所在していた。それを何らかの理由で他所へ移した。その後、不幸や、怪異などがあり、巫女等のお告げに従って元の位置に戻した。」というストーリーを想像できる。地元の方の聞き伝えは、移転した先から、元来の位置に再び造立したということではないだろうか。これを実証する手だてはないが、板碑の建つ塚の存在から、現所在地が、元来の造立場所である可能性は高いと考える。
板碑は現状で高さ210㎝の長大なものである。碑面上半部には薬研彫りで種子が大きく刻まれる。「バイ(薬師如来)」に涅槃点を加えた形状の種子であり、種別が解らない種子である。種子の下には偈頌、あるいは願文と推測される文字が紀年銘の左右に二行ずつ、合せて四行刻まれる。不明瞭な部分が多いが「行若ヵ成佛 千佛□□ 皆ヵ同ヵ□□ 六道迷法ヵ」と判読される。紀年銘は「延文六年 辛丑 八月四日」と刻まれる。延文六年は西暦1361年に相当する。延文は北朝年号である。
板碑の輪郭は頂部が丸みを帯びて尖る三角形の形状である。碑面は平坦で整形されていると思われるが、石材に起因する多孔子質な碑面となっており、刻字が非常に判読し難い。また、種子の下と碑文の一部に抉りがみられ、人為的なものと考えられる。側面、背面は自然面のままである。石材は凝灰岩と推測される。当碑は平成26年12月に倒壊する危険性があるため、紫波町教育委員会により、据え直し工事がおこなわれた。その際の碑下端部を撮影した写真をいただいたが、碑下端部は柄状に出っ張った形の加工を確認できる。 ― 「岩手県の板碑」(岩手県立博物館 2015.3.20) ―
-------------------------------------------------------------------
ふるさと 紫 波 愛 着 と 誇 り
郷土への思いを込めて 遺跡標柱に あなたのお名前を!
紫波町観光交流協会では、史跡・遺跡等の所在地を示す案内標柱設置に協力くださった方の、お名前を標柱に記入しています。
善知鳥館
-
紫波町指定史跡 善知鳥館跡「比与鳥柵 擬定地」 (紫波町南日詰字滝名川地内) 一般国道4号
国道4号線沿いの南日詰字滝名川地内に所在する東西250m南北150mの古代の城館跡です。
善知鳥館跡は、昭和38年(1963)の確認調査では、空掘跡や柱穴が見つかっており、厨川柵との共通点も指摘されるなど、ほぼ安倍氏関連の館跡であろうとされています。
北上川と滝名川の合流点北西部の台地上にあることから、安倍氏12柵の一つ比与鳥柵ではないかとする説もあります。
安倍貞任の家臣善知鳥文治安方の居館跡と伝えられてきましたが、これについての明確な資料はなく、今では架空の人物とするのが定説となっています。
北条館