箱清水石卒都婆群

 箱清水石卒都婆群

我が国は、木の文化といわれる。神社仏閣や民家などの木造建築は、世界に類を見ない文化遺産であり、木の文化を象徴している。しかし、環状列石、古墳、庭園、城郭造りなどに代表される石の文化も色濃く残されている。石塔は自然の一部であり、自然の中にあってこそ石としての霊力が発揮されるものとして、畏敬の対象にされたのだろうか。
五郎沼の北岸に大荘厳寺跡とされている区画がある。五郎沼を臨むような場所に十基ほどの板碑(石卒塔婆)が建っている。「箱清水石卒都婆群」と称される板碑群である。
板碑は、板状の形状で、石で造られた中世の石塔(仏塔)である。塔や塔婆という言葉は、仏塔を意味する「ストゥーパ」が語源とされる。この音を漢字で表した卒塔婆(卒都婆)の略であり、本来、釈迦の骨とされる仏舎利(ぶっしゃり)を安置するための建造物であるとされる。
「箱清水石卒都婆群」が建つ場所には、文化財として指定された板碑が4基ある。一つが不動明王像が線刻された絵像碑(県指定有形文化財)、残り3基が紫波町の指定有形文化財である。当該地には、これら4基の板碑のほか、安政7年(1860)の紀年銘(造立年月日)をもつ馬頭観音碑と文化3年(1806)の紀年銘をもつ五郎沼供養碑が建っている。鎌倉時代の紀年銘をもつ板碑群の存在は、大荘厳寺との関連性が考えられる。同時に比爪館跡が複合遺跡である事実から、中世にこの地を領有した斯波氏などの有力武士層が関与している可能性も否定できない。
板碑は、仏の姿や種子(しゅじ=仏・菩薩などをあらわす梵字)のほか、紀年銘、供養者、願文(造立の趣旨)、偈頌(げじゅ=経典の詩文の一部)などが彫られる場合が多い。
「箱清水石卒都婆群」の中には、不動明王立像が線刻された不動明王絵像碑がある。鎌倉時代末期の元亨3年(1323)4月8日の紀年銘が刻まれている。県内で仏像を線刻した中世の石塔のなかで、紀年銘があるのはこの碑だけである。県内で最も古い絵像碑(仏像の絵を線刻して描いた碑)と考えられ、信仰史上極めて貴重な板碑といえる。
板碑が流行する時期は、全国的に惣村の成立時期と重なっていることが注目されており、中世における志波郡の郷村制の成立や人々の帰依の深さや信仰世界の様相などを知る貴重な文字資料といえる。