大荘厳寺跡
かつて比爪館跡の区画に、樋爪氏が建立したとされる大荘厳寺の存在が伝えられている。しかし、その建立場所、由来、創建時期は定かではない。比爪館跡の遺跡からは13世紀の五鈷杵(ごこしょ)、磬(けい)などの仏具や14世紀から15世紀の中国製の磁器が出土している。これらの遺物は、何らかの宗教施設が存在したことを示している。
比爪館跡区画の南西部に薬師神社が鎮座している。神社南側に阿弥陀堂が鎮座し、大荘厳寺ゆかりとされる阿弥陀如来像が祀られている。また、薬師神社の西側に位置する個人住宅の敷地の北西付近には、「金比羅池」と称する池の存在が伝えられている。その個人宅には、阿弥陀堂が鎮座する土地がかつて大荘厳寺の寺領であったことを示す貴重な資料が残されている。
大荘厳寺の由来については、これまで三つの考え方があった。
一つ目は、前九年合戦の際、源頼義・義家父子が戦勝を祈願し、永承6年(1051)に創建したという地元に伝承された記録である(「嶋の堂の起源」『南日詰小路口家文書』)。
二つ目は、寛文12年(1672)の村高帳に北日詰村と南日詰村の両村に大荘厳寺領があったことや、十基ほどの「箱清水石卒都婆群」(紫波町指定有形文化財)が造立されていることから、この一画を大荘厳寺跡の擬定地とする見解である、さらに卒都婆群の造立年代から、大荘厳寺は鎌倉時代に創建された可能性があるとする。
三つめは、大荘厳寺は樋爪氏の滅亡後間もなく創建されたとする見解である。この考え方は、「箱清水石卒都婆群」の現地説明板と同じ見解である。これは、樋爪俊衡が法華経を篤く信仰し、戦禍で亡くなった人々の霊魂を浄土へと導くとともに、自らの浄土への往生をも祈願するため大荘厳寺を創建し、さらに平泉藤原氏四代泰衡の子秀安を養育したとの伝承に基づく考え方である。