比爪館跡と周辺の文化財
北の拠点・比爪館
比爪館の誕生
岩手県、青森県及び秋田県の北東北三県は、互いに隣接し古くから様々な交流・連携の歴史がある。北東北の地方豪族であった安倍氏と清原氏の系譜を継ぐ藤原清衡は、朝廷から北東北に対する軍事・交易の広範な権限を独占的に与えられた。さらに、これらを権力基盤にしながら、中央の権門や院近臣との結びつきを強め、奥羽両国全体へ公的権限の拡大を図りながら、奥州における政治・行政上の拠点平泉を形成していった。
志波郡は、岩手郡とともに北東北の「奥六郡」(胆沢郡・江刺郡・和賀郡・稗貫郡・志波郡・岩手郡)と呼ばれた地域内の北部に位置する。平泉政権は、その一門である樋爪氏を志波郡の比爪に配置した。平泉藤原氏の時代、志波郡は樋爪氏の支配下にあった。
近世の北東北は、豊臣政権による奥羽仕置によって盛岡藩・弘前藩・秋田藩の藩領が確定され、それぞれ近世大名によって分割統治されていた。平泉政権は、この広大な北東北において、樋爪氏ただ一人を分割統治者として志波郡に配置した。奥六郡内で分割支配が認められたのは樋爪氏だけである。
「比爪館跡」が重要な遺跡として注目されるのは、当時の平泉政権や樋爪氏による在地領主としての地方支配の実態や社会・文化を解明する手掛かりを与えてくれるからである。比爪館跡や周縁遺跡の発掘調査などによって、都市平泉と類似する都市的な構造などが部分的ながらも解明されつつある。
樋爪氏が志波郡に配置されたのは、これまで郡内から産出される砂金や馬などを統括するためと考えられていた。樋爪氏は、北方世界に君臨する平泉政権の下で、比爪館を拠点に本州北部の境界領域や海峡を隔てた北方の地域との活発な交易活動を基盤としながら、志波郡・岩手郡の政治・経済・文化の中枢として、平泉政権を支えていたことは事実であるが、今後発掘調査によって、平泉政権の権力構造や樋爪氏の分割統治の実態など、比爪館の実像が徐々にみえてこよう。
平泉藤原氏及び樋爪氏時代の武士は、地頭の入替えによって歴史の表舞台から一歩後退したが、室町時代から戦国時代を経て近世初期に登場する志波郡の豪族や豪農層は、平泉藤原氏・樋爪氏時代の武士の系譜を引く一族であったと考えられ、地域の歴史文化を牽引していった彼らの事績を紡いでいくことが地域の歴史の掘り起こしでもある。
仏教の浄土思想に基づいた現世における仏国土(浄土)の空間的表現を目指したとされる都市平泉の理念は、樋爪氏の居館や宗教建築など、都市整備の技術、意匠などにも大きな影響を与えたと考えられる。比爪には、この理念をもとに計画、整備された多くの遺構や遺跡が残されており、その威容を今に伝えている。
比爪は、平泉の都市理念が奥六郡内で展開された数少ない例として貴重であり、「平泉を支えた北の拠点・比爪」と評されるにふさわしい歴史的な特性を備えた地といえる。
比爪館跡
比爪館は、北上盆地を南北に貫流する北上川右岸に位置する。西部には奥大道、東部に
はあづま海道(東街道)など東西の根幹道路が走る水陸交通の要地にあった。比爪館跡は、平泉藤原氏の一門である樋爪氏が平安時代(12世紀)に造営した館址である。しかし、その館は、文治5年(1189)の奥州合戦で焼失し、その全容は地中に眠った状態にある。
比爪館跡は、赤石小学校の敷地を含む東西約300m、南北約200m、約5万㎡近い広さの不整形の区画である。その区画は、五郎沼のある南端を除く東・西・北の三方が幅10m前後、深さ約12mの大溝で囲まれている。
掘立柱建物跡
比爪館跡の発掘調査は、昭和40年代から区画内の北西部(赤石小学校周辺)を中心に逐次行われてきた。区画北西部から四面廂(ひさし)建物が確認され、館の主殿級の建物が配置されていた区域とみられており、周辺から厠状遺構や井戸跡などが検出されている。また、北部中央にも四面廂建物跡が集中しており、その南に仏堂とみられる宝形造建物が確認されている。
遺物として12世紀前葉から後葉のかわらけ(素焼き陶器)、常滑焼・渥美焼・珠洲焼などの国産陶器、中国産磁器などが多量に発見されている。これらの遺構や遺物からいえることは、比爪館遺跡は、他の平泉関連遺跡ではみられない四面廂建物が多数確認されることから、平泉柳之御遺跡と類似する部分があり、柳之御所遺跡に準じた居館と位置付けることができる。
近年、比爪館跡は考古学的知見が蓄積され、学際的な研究が進展している。この比爪館跡の北方から東方には、北日詰東ノ坊I・Ⅱ・Ⅲ遺跡、大日堂遺跡、南日詰大銀I・Ⅱ遺跡、南日詰小路口I・Ⅱ・Ⅲ遺跡など、12世紀の遺物を出土する遺跡が濃密に分布する。
比爪館跡の東側に位置する南日詰小路ロⅠ・Ⅱ遺跡の発掘調査では、12世紀の大規模な区画溝と直線的な道路遺構が検出されており、都市的な空間と推測されている。さらに南日詰大銀Ⅱ遺跡では、塀跡、三面廂掘立柱建物跡、幅60㎝の塀跡、土坑跡、柱穴跡などの遺構や中国産の黄釉陶器盤、常滑産陶器、中国産陶磁器、鉄製品などの遺物が検出されている。
樋爪氏
比爪館は、鎌倉時代に成立した歴史書である『吾妻鏡』に樋爪俊衡の居館として登場する。同書では、俊衡は「樋爪」・「比爪」の二つの名字が記され、「比爪」を地名としていたことが知られる。同書によれば、文治5年(1189)の奥州合戦おいて、頼朝軍が志波郡に到着したとき、当主樋爪俊衡は驚いて比爪館に火をかけ奥の方へ逃げたと記されている。
南北朝時代から室町時代初期に完成したとされる系図集である『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)によれば、俊衡の父清綱は平泉藤原氏初代の清衡の子としている。つまり、俊衡は藤原清衡の孫にあたるが、別な考え方をする系図もある。しかし、樋爪氏はその系譜から平泉藤原氏の同族であり、豪族的な武士の家筋であることは確かといえよう。
ここで、樋爪氏や平泉藤原氏が滅亡することになった文治5年(1189)の奥州合戦の歴史的な背景を振り返ってみよう。
12世紀末の我が国では、西国を基盤とする平氏、東国を基盤とする源頼朝、奥羽を基盤とする平泉藤原氏の三つの武家政権が分立する状態が生まれていた。
平氏政権が倒れた後、全国制覇を狙う頼朝政権に対抗しうる武家政権が平泉藤原氏だった。平氏滅亡後、後白河法皇は頼朝政権の強大化を恐れ、源義経に頼朝追討の宣旨(天皇の命令)を発した。これに逆上した頼朝は朝廷に圧力をかけ、義経追討の院宣(上皇からの命令)が下された。平泉政権は、後白河法皇から二度にわたり義経追討を命じられたが義経をかくまい続け、頼朝政権に対峙する姿勢をみせた。朝廷(後白河法皇)と平泉政権の結びつきは、頼朝政権にとって最大の障害・脅威でもあり、これを除去するためには平泉政権を倒す以外に方法がなかった。
『吾妻鏡』によれば、源頼朝が志波郡に侵攻した時、樋爪太郎俊衡は比爪館を焼いて北方へ逃走を図った。9月15日、俊衡とその弟五郎季衡などの一族が厨河(盛岡市)の頼朝陣営に投降した。翌16日、自らも法華経を深く信奉していた頼朝は、法華経を読経する以外に何も発しない俊衡を許し、これまでの比爪の領地を安堵した。俊衡は、この地で平泉藤原氏四代泰衡の子秀安を養育し、後に自分の娘を娶らせたという記録が地元に残されている。
『吾妻鏡』によれば、頼朝に投降した樋爪氏一族は、樋爪俊衡・俊衡の息子三人・俊衡の弟季衡とその息子一人など六名が記されている。俊衡を除く樋爪氏一族は、投降者として鎌倉に連行されることとなった。同書には配流予定先が記されている。
頼朝は鎌倉へ帰還途中、勝利祈願の成就の奉謝のため下野国(栃木県)の宇都宮二荒山神社に立ち寄り、連行された五人のうち、少なくとも一人をこの神社の職掌として献納したとする。宇都宮駅に近い三峯神社には、五輪塔二基の「樋爪氏の墓」(宇都宮市指定有形文化財)がある。現地の説明標柱では、二荒山神社に献納された樋爪俊衝と弟の五郎季衝の墓とするが、五郎季衝親子の墓の可能性があるとして、二つの考え方を併記している。