嶋の堂の由来                     

                                故 工藤隼人氏 作成

嶋の堂千手観音  

 嶋の堂の由来と歴史


五郎沼周辺には、平泉藤原氏の一族である樋爪氏が北方支配の拠点として造営した「樋爪館跡」(紫波町指定史跡)がある。嶋の堂は、比爪館跡の南に位置する五郎沼近くの一画にひっそりと佇む観音堂である。境内には、鎌倉時代末期の乾元(けんげん)2年(1303)の紀年銘が刻まれた板碑(紫波町指定有形文化財)が建っている。この板碑は、長い歴史に彩られた観音堂であることを示している。
嶋の堂は、本尊である千手観音像(紫波町指定有形文化財)や明治期に五郎沼薬師神社から遷座した日光菩薩像・月光菩薩像などを安置する観音堂である。千手観音像が安置されていることから、古くから「当国三十三所」霊場6番札所のほか、複数の霊場の札所として古くから信仰の対象とされてきた。
嶋の堂は、盛岡藩の記録では、「五郎沼嶋堂広泉寺千手観音」と記録されている。かつて、嶋の堂は五郎沼の「観音島」と唱えられた小高地(中島)にあった。記録では、嶋の堂観音・五郎沼観音・五郎沼千手観音・嶋の観音堂などと称されていたことが知られる。いつしか「嶋の堂」と略称的に呼ばれ始め、現在の通称に定着したのだろう

 

対等にみて外来の仏教信仰と我が国固有の神祇信仰を融合調和させようという神仏習合の思想があった。その代表が本地垂迹説と呼ばれるものである。インドで生まれた仏を本地とし、それが日本では仏が人を救うために仮に神という形になって現れた(垂迹)とする考え方である。これによって、神々には必ず本地仏が定められるようになった。
仏を本体として祀る嶋の堂広泉寺は、もともと千手観音を本尊として八葉山広泉寺(こうせんじ)と称する寺であった。広泉寺は、鎌倉時代から南北朝時代に創建されたと推測されている。広泉寺は、室町時代初期に修験道による神仏習合の影響を受け、観明院(かんみょういん)と称し、千手観音を本地仏とする修験持ち寺院となった。紫波町内では早くに修験開山した院坊の一つである。

 

 


修験道とは、日本古来の山岳信仰と仏教の密教、道教などが結びついて成立した実践的な宗教といわれ、その行者を修験者(山伏)という。近世以降、修験者は地域社会に定着し、人々の現世利益的な要求にこたえ、無病息災や雨乞いなどの宗教活動とともに、山伏神楽などの民俗芸能を村々に伝授するなど、村の有識者として崇敬を受け、庶民生活と深く結びつきながら、神仏習合の浸透に大きな役目を果たした。
嶋の堂広泉寺は、江戸時代にも観明院と称し、京都聖護院(本山派)の地方修験者として盛岡藩の修験総録の自光坊の下で、地域社会の人々の信仰生活に大きく関わってきた。
嶋の堂広泉寺の本尊仏の千手観音像や、それを安置する往古の観音堂は、たびたび移転を余儀なくされ、観音堂は長い年月の間に荒廃したと推測される。五郎沼中島の古堂地において廃墟・滅失していたと考えられる観音堂は、巡礼者が不便するとのことで、享保元年(1715)に盛岡藩から再興が認められ、現在の嶋の堂近くに再興された。本尊である千手観音像は、それ以前に嶋の堂広泉寺に移されていたのだろうか。
修験道免許状を中心とする修験関係文書や寺宝は、明治期の神仏分離政策の影響を受け、その大半は焼失し、院主は還俗を余儀なくされた。嶋の堂広泉寺は、小規模で祈祷所程度の規模であった可能性があり、この時点で無檀・無住の御堂として廃寺され、堂宇は取り壊され廃寺になった。嶋の堂広泉寺の本尊仏である千手観音像は、廃仏毀釈運動の影響を受けながらも廃棄を免れた。
その後、神仏分離令以来の統制政策は大幅に緩和され、小規模な社祇や仏堂であっても、民衆の信仰が篤い社堂の場合は、その存続を許可するという特例が認められた。地元では新たに観音堂を再建し、千手観音像を祀って現在に至っている。 

  由来にまつわる伝承

広泉寺の由来や創建時期については、同時代の明確な資料を欠くため、不明な部分が多い。盛岡藩の公式記録である家老席日誌「雑書」や社寺記録である「御領分社堂」、地誌類にその名が散見されるだけである。
嶋の堂(広泉寺)の由来については、二つの考え方がある。ともに嶋の堂の本尊である千手観音像を奉納した人物を拠り所としている。
一つ目は、南北朝時代(1335年頃)、北朝方(武家方)である陸奥守斯波家長が志波郡領主となり、その重臣である簗田氏に同行した僧宥存(ゆうぞん)が、五郎沼の「中島」に霊験を覚え、持仏の千手観音像を祀り、広泉寺を創建した。この広泉寺が後の世にいわれる「五郎沼観音」「島の堂観音」の起こりとする。これは、現地説明板に記載されている考え方である(故工藤隼人氏作成)。
二つ目は、文治5年(1189)の奥州合戦後、源頼朝によって旧領地である比爪の地を安堵された樋爪俊衡が、一族郎党の供養のため、廃墟後の比爪館跡の一部(五郎沼中島か)に 観音堂を建立し、持仏である千手観音像を奉納したとする考え方である(南日詰「上池家所蔵文書」)。

  嶋の堂千手観音

嶋の堂に伝来した本尊は、鋳銅鍍金(ときん)の千手観音像である。この「鋳造千手観世音菩薩座像」(紫波町指定有形文化財)は、蓮華座に坐す千手観音像を据え、尊像、台座、唐草舟形光背が一体で、観音開きの円筒形厨子に納められている。
千手観音像は、一般的には、27面、42臂(臂=ひ=肘から手首部分)の像形で表されるが、この本尊仏の像容は小型の厨子入り仏像として造られていることから像体が小さく、一面、左14臂、右19臂の姿で造形されている。室町時代の制作とされている。

鎌倉・室町時代において、金銅仏の作像技術は高いレベルに達し、芸術的にも工芸的にも優れた像が作られた。この観音像も像はもとより、光背、台座に至るまで細緻を極めた仏像といえる。
この観音像の来歴は定かでないが、室町時代に中央で制作された観音像が当時の有力者によって志波郡に持ち込まれたと考えられている。この像は、当地域において神仏習合などの歴史上重要な事象を示す資料で、歴史的または学術的価値が高く貴重といえる。明治期に多くの仏像が破壊され、焼失したなか、それを乗り越えてきた遺品といえる。



 ◎左右上下面 画像
            左側像                               右側像









        上面                背面                  下面










  ◎嶋の堂の板碑(乾元二年碑

嶋の堂境内には、乾元2年(1303)の紀年銘(造立年月日)が刻まれた鎌倉時代末期の供養碑である「南日詰乾元(けんげん)二年碑」(紫波町指定有形文化財)が建っている。乾元2年は北朝の年号で、この地方が北朝の支配下にあったことを示す。
この供養碑は、板状の形状をしており、石で造られた中世の石塔(仏塔)であることから板碑(いたび=石卒塔婆)とも呼ばれる。塔や塔婆(とうば)という言葉は、仏塔を意味する「ストゥーパ」が語源とされている。
板碑は、仏の姿や種子(しゅじ=仏・菩薩などをあらわす梵字)のほか、紀年銘(ぞうりゅうねんがっぴ)、供養者、願文(造立の趣旨)、偈頌(げじゅ=経典の詩文の一部)などが彫られる場合が多い。この板碑は、正面上部に種子が深く刻まれ、種子は「ア」と発音され、普賢菩薩・無量寿如来を意味するといわれる。

この板碑には「妙法蓮華経 譬諭品第三」から引用された「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子」(今此の三界は、皆是れ我有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。)という偈頌(げじゅ=仏徳を称える詩文)の文言のほか、下中央に紀年銘、その左右に「右志趣為亡息往生並び乃至法界平等利益也」の願文を刻んでいる。偈頌(げじゅ=仏徳を称える詩文)といわれる文言のほか、紀年銘や造立者の願文が確認できる。
現在の嶋の堂境内には、明治初期まで五郎沼観音堂の由来とされる広泉寺が建立されていた。広泉寺は、南北朝時代(1335頃)に志波郡の領主斯波氏の家臣である簗田氏と同行した僧宥存(ゆうぞん)が創建したと伝わる。宥存の没年は、伝承記録から貞治3年(1364)と確認されている。この板碑は、この板碑は、その願文から嶋の堂広泉寺の僧宥存(ゆうぞん)が子息の追善供養のために造立したと考えるのが自然であろう。当初の造立場所は不明だが、現在の広泉寺境内に造立された可能性が高いとされている。
北上川流域には中世の供養碑である板碑が数多く造立された。この板碑は、文字資料が少ない中世志波地方における人々の信仰生活や供養の様相などを知る貴重な遺品であり、五郎沼観音堂・広泉寺の由来を解く重要な資料といえる。

 


  巡礼地嶋の堂

嶋の堂の千手観音像は、「当国三十三所」・「陸中八十八所」・「奥羽三十三所」の三か所の霊場札所として長い歴史と由緒を物語っている。三霊場の札所を兼ねる類例は全国的に少なく、それだけに広く近郷に周知され、人々の信心の拠り所となってきた観音霊場といえる。当国三十三所が成立した時期は定かではないが、盛岡藩の社堂記録である『御領分社堂』から、宝暦13年(1763年)以前に成立していたことは確かであろう。
三十三所巡礼は、観音菩薩が三十三の姿に化身してこの世に顕れ、人びとを救済すると説く「妙法蓮華経」を拠り所とし、ここから次第に33か所の観音霊場を巡るという三十三所巡礼が成立していった。それぞれの札所には、創建時の地域の風土や歴史に根差した独自の信仰の形が継承され、地域の歴史文化を培ってきた。
三十三所霊場は、信仰心の薄れとともに観音巡礼回りも激減し、現在その存在意義も薄れ、所在さえも不明になりつつある霊場も多い。巡礼などによってその地の信仰の風景や地域の秘められた歴史に接することができる数少ない聖地である。






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