五郎沼薬師神社EADLINE

大荘厳寺の鎮守社 薬師堂

大荘厳寺の鎮守であった薬師堂 薬師神社は、五郎沼北岸に鎮座するかつての薬師堂である。我が国の寺院は、神仏習合が進む中で寺院守護のためさまざまな神祇が祀られた。薬師神社は薬師如来を本地仏とし、近世初期に盛岡城下に移転した大荘厳寺の鎮守社として盛岡藩の庇護を受け、長い歴史と格式を有する神社である。現在は記紀(古事記・日本書紀)にみえる少彦名命(すくなひこなのみこと)を祭神とする。薬師堂は、明治期の一連の神仏分離政策によって薬師神社と名称を変え、地元では「薬師さん」として親しまれている。  

樋爪氏が創建した薬師堂薬師堂は江戸時代には由緒は不詳とされていたが、樋爪俊衡が大荘厳寺の鎮守社として比爪館の一画に創建したと考えられている。大荘厳寺の極楽浄土の阿弥陀如来に対し、東方浄瑠璃浄土の主である薬師如来を祀るために薬師堂を創建したとも考えられる。物語などの浄瑠璃の言葉はこれに由来する。境内にある多くの石碑は、大荘厳寺の鎮守社として長い歴史をもつ神社であったことを示すとともに、産土神(うぶすながみ)として多くの人びとによって崇敬されてきた神社であることを物語っている。

神社の沿革 社伝では樋爪俊衡が国家安穏・武運長久の祈願のため、比爪館の一画に勧請したとする。盛岡藩の記録によれば、薬師神社は「薬師堂」と呼ばれる三間四面の萱(かや)ぶきであり、当時からその由緒は不詳とされていた。本地仏(神の正体とされる仏)の記録はないが、薬師如来を本尊とする仏堂で大荘厳寺の鎮守社として把握されていた。盛岡藩から長い歴史と格式を有する仏堂として庇護され、寛永年間(16241644)に盛岡藩3代藩主南部重直、享保年間(17161736)に同8代藩主南部利視によって修復され、棟札が残っている。

大荘厳寺跡の浄土庭園 薬師神社の周辺に別当寺の大荘厳寺があったとされる。比爪館跡の南西部の区画がその寺域と想定されている。薬師神社の南側の民家敷地内には阿弥陀堂が建ち、大荘厳寺ゆかりとされる阿弥陀如来坐像が安置されている 。また、「金比羅池」と称する池があったと地元では伝える。現地の地形測量では、約100m四方の広がりを持つ池とその西端に楕円形の島状の高まりが確認されている。これらの遺構は平泉の無量光院と同規模の浄土庭園跡と想定されており、園池をともなう寺院が建立されていたと推測されている。

盛岡城下に移転した大荘厳寺 大荘厳寺は、比爪館の政庁・御所とともに造営された寺院と推測されている。比爪館跡からは仏教遺物が出土しており、複数の寺院の存在も推測される。大荘厳寺は戦国期に三戸南部氏との抗争の際に領主斯波氏に加担し、近世初頭に盛岡城下に移転を余儀なくされ、比爪館ゆかりの地における大荘厳寺の歴史は途絶えた。城下移転後の大荘厳寺も明治期に廃寺になった。現在、比爪館跡の南西部には大荘厳寺が別当を勤めた薬師神社のほか、阿弥陀堂、箱清水板碑群、清水端板碑などが往時の面影を残している。

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