樋爪氏の時代巡り

O伝承される義経伝説


義経判官堂
義経はなぜ平泉をめざしたか  赤沢では源義経が青年期を過ごし、乗馬・武術の訓練や地元娘との恋物語があったことを伝える。義経が兄源頼朝に宛てた「腰越状」では、頼朝の軍陣に加わる以前は「辺土遠国を栖(すみか)」にしたと記録されるだけである。義経が出家を嫌い、平泉をめざした背景は、『吾妻鑑』では「秀衡が猛勢を恃(たの)み」と記録されている。鞍馬から出奔するにあたっては、日宋貿易などを通じて秀衡と友好的な関係を維持していた平清盛の了解や義経を取り巻く貴族社会の複雑な思惑、母常盤の後ろ楯などが想起される。


義経神社(判官堂)案内標柱
義経の最期  兄頼朝の片腕となって平家滅亡を成し遂げた源義経は、賞賛どころか鎌倉に入ることさえ拒否され、満福寺に留め置かれた。朝廷から官位を独断で受けたことなどが頼朝の逆鱗(げきりん)に触れたとされている。義経は、頼朝に対し自分に反意がない旨の書状を大江広元に託した。それが「腰越状」である。しかし、最終的に頼朝と和解できず朝敵として追われる身となった。義経は再び平泉の藤原秀衡を頼り奥州へ下った(東下り)。父秀衡の死後、頼朝の圧力に屈した泰衡は、文治5年(1189)閏4月30日、義経を自害に追い込んだ。


義経判官堂周辺の案内板

義経伝説  『吾妻鏡』には、腰越の浜(鎌倉市)で義経の首実検をした記録がある。実検後に棄てられ、潮にのって流れついた首を洗ったとされる首洗い井戸(藤沢市)があり、近くの白旗神社に葬られたという。義経は首だけになっても鎌倉入りは許されず、霊を封印する形で鎮められている。妻子ともども非業の死を遂げた義経の生涯は、人々の同情を呼び、判官贔屓(ひいき)という言葉を生んだ。義経は英雄視されて語られ、史実と大きくかけ離れた義経像が次々と付加され、虚実織り交ぜた物語や伝説が義経伝説として現代に語り継がれている。



伝 藤原経清母の供養碑

藤原経清の母の供養碑  白山神社参道の左に嘉暦(かりゃく)4年(1329)の年号が刻まれた板碑が建つ。地元では藤原経清の母の供養碑と伝える。藤原経清は平泉藤原氏初代清衡の父で安倍頼時(頼良)の娘を妻にしていた。前九年合戦では安倍氏に加担し、厨川柵(盛岡市)で斬首されたと伝わる。経清一族である遠山師重(もろしげ)は、経清の居館である豊田館(奥州市)に祀られていた白山神霊を護持しながら、経清の母とともに赤沢の阿弥陀堂の伯父を頼って落ち延びたとされる。地元では経清の母はこの地で亡くなったと伝えている。