樋爪氏の時代巡り

J経典をまもる山屋館経塚


山屋館経塚(復元)
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経塚とは  経塚は、法華経を中心とする仏教経典を土中に埋納した塚である。なぜ経典を埋めたのだろうか。釈迦の入滅後、56 億7千万年後に第二の釈迦としてこの世を救う弥勒仏(未来仏)が現れるまで経典を地中に保存して残そうとした一種の仏教の作善(仏縁を結ぶための善事)とされているが、次第に死者の追善供養の意味が大きくなっていく。経塚は56億7千万年後の未来に託した古代のタイムカプセルといえるが、現代人は学術調査とはいえ、天文学的な時間を待てずに開封してしまったことになる。


珠洲系波状文四耳壺(県指定文化財)
経塚の宝庫・紫波町  全国に分布する経塚は、末法思想の関係で12世紀代のものが大半を占める。山屋館経塚の造営も同じ時期とされている。県内の経塚はその多くが北上川流域の奥羽・北上山系の丘陵部に分布する傾向がある。山屋館経塚の造営者は樋爪氏が想定されるが、北上川流域に濃密に分布する状況や山屋館経塚に先行する繋地区の一本松経塚(盛岡市)の存在は、平泉藤原氏の一連の事業である可能性を残している。一本松経塚では渥美窯産の灰釉壷(かいゆうつぼ)が出土しており、12世紀前半の造営と考えられている。


常滑三筋文壺(県指定文化財)
発掘された経塚  山屋館経塚は発掘調査によって4 基の経塚が確認された。経典を納めた容器と考えられる常滑産三筋文壺(さんきんもんこ)や盗掘痕のある経塚からも須恵器系波状文四耳壷(しじこ)、銅版で縁取りした木箱の残欠が出土している。壺の生産時期や使途などから平安時代後半(12世紀半ば〜12世紀後半)に順次造営されたものと推定されており、平泉藤原氏や樋爪氏の時代と重なる。経塚から出土した陶器壺・蓋石・木箱残欠など4点は、保存状態が良好で資料価値が極めて高い。「山屋館経塚出土品」として県指定文化財になっている。



移設復元された山屋館経塚(復元地)

移設・保存された経塚  この経塚は、道路改良工事に伴う発掘調査によって発見され、元の造営場所は道路になった。しかし、先人から受け継いできた経塚を保存しようとする地元山屋地区の人々の熱意は、近くに移設・復元することで実を結んだ。経塚も板碑と同じように土地に刻まれた歴史の年輪である。経塚は末法の時代における仏教思想を知るうえで学術的にも貴重である。遺跡の消滅が危惧されている昨今、経塚を移設・復元した山屋地区の人々の取組は高く評価される。この取組は歴史遺産の保護の在り方を示している。