斯波氏の時代コース巡り

H 曹洞宗の古刹・広沢寺


広沢寺本堂
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寺院の沿革  寺伝によれば、正法寺二世月泉良印の発願により、その弟子端山慧忍が応永2年(1359)に創建したとする。『正法年譜住山記』の月泉禅師の法嗣帳に「光沢寺斯波之郡瀧浦」と確認できる。所伝では北上川西岸の滝浦(南日詰字廿木)に開山したが、永禄3年(1560)に洪水のため流失、南日詰日向(屋敷名か)に再建したとする。元亀2年(1571)に下藪(北日詰)に移転したが、天正16年(1588)の高水寺斯波氏と三戸南部氏の抗争の際、兵火に遭い焼失した。慶長9年(1604)に現在地に移転・再建している                 


広沢寺本堂
広沢寺と簗田氏  志和稲荷神社は、天正16年(1588)5月に斯波詮直が大旦那(施主)となって同社本殿を造営している。この棟札銘にみられる簗田詮泰は平沢館の館主であり、当時の北日詰・平沢村を知行しており、平沢八幡宮の保護者としても知られる。簗田詮泰は高水寺斯波氏に離反した高田吉兵衛(中野康実)に追従して主家を離れ、最終的に三戸南部氏から高水寺斯波氏時代の日詰村と平沢村の旧領を安堵されている。慶長9年(1604)に広沢寺が平沢村に移転・再興した背景には、簗田氏が寺地を寄進するなどの保護があったと想定される。



広沢寺本堂
斯波氏が避難した広沢寺  高水寺斯波氏は、樋爪氏時代の宗教的な秩序を解体し、当時の新興的な勢力であった禅宗系や浄土教系の宗勢の拡大に保護を与えながら、新たな宗教的勢力として取り込み、その枠組みを再編成したものと想定されるが実態は不明である。広沢寺の所伝では、高水寺斯波氏と広沢寺の関係は不明としながら、天正16年(1588)の高水寺斯波氏と三戸南部氏の抗争の際、敗走する高水寺斯波氏が広沢寺を避難場所にしたため戦禍に巻きまれたという。三戸南部氏は広沢寺を斯波氏に加担する宗教勢力として焼き討ちの対象にしたのかもしれない。              


広沢寺の山号「青龍山」の扁額

曹洞宗の入牌  曹洞宗寺院である正法寺(奥州市)では、領主黒石越後守正端らの帰崇を得て七堂伽藍などが整備された。また、地域の武士層を中心に死者の位牌を寺の牌堂に納める入牌が行われ、教線の拡大を図ったことが知られる。入牌料として金銭や田畠が寄進され、過去帳への記載、入牌儀礼が執り行われた。追善・逆修供養のために入牌する営為は、一つの仏教習俗として受け入れられ、入牌場所(位牌所)は地域の菩提所として位置づけられ、中世から戦国期を経て江戸期以降も続けられることとなった。