斯波氏の時代コース巡り

G 鎌倉末期の創建を伝える島の堂


嶋の堂板碑群
もう一つの嶋の堂の由来  盛岡藩の記録によれば、嶋の堂は藩政時代には「千手観音堂」と呼ばれ、広泉寺を別当とする修験持ちの社堂として分類されている。嶋の堂の由来については樋爪氏や簗田氏が持仏を奉納したとする所伝以外に、次のような伝承がある。南北朝時代(1335頃に)に北朝方の足利(斯波)家長が志波郡領主となり、家臣簗田氏が当地を知行するに及び、簗田氏と同行の僧宥存が五郎沼谷地の中島に霊験を覚え、持仏の千手観世音像を本尊として広泉寺を開山したことが後の世の「五郎沼観音」・「嶋の堂観音」の由来とする。        


嶋の堂板碑群
広泉寺の開山  嶋の堂は、盛岡藩の記録では「五郎沼嶋堂千手観音」と記載されている。嶋の堂境内には、乾元2年(1303)の紀年銘(造立年月日)が刻まれた鎌倉時代末期の供養碑が建つことから、これ以前に広泉寺が開山されていた可能性がある。伝承からたどれば、志波郡に定着した高水寺斯波氏重臣の簗田氏の開基が想定されるが明証を欠く。鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけて、武家の相続法が大きく変化するなかで、多くの武士は所領がある地方(本貫地)に下向する。僧宥存は高水寺斯波氏・簗田氏に従って志波郡に定着した陣僧(従軍僧)かもしれない。             


嶋の堂修験資料
修験院坊  志波郡の修験道は、すでに平安時代の白山権現社(赤沢)や新山権現社(志和)に形跡がうかがわれ、早くに修験霊場(道場)が成立していたと考えられる。修験道院坊の創立が確認できるのは室町時代初頭である。所伝によれば、観明院(嶋の堂)、善養院(遠山青麻神社)、喜明院(佐比内熊野神社)の三院坊はこの頃の創立とされている。嶋の堂観明院の修験開山は、広泉寺の祥元法印と伝えている。「広泉寺過去帳」の祥元法印の没年などから判断すれば、正長元年(1428)から文正元年(1466)の間に開山されたことは確かであろう。   


嶋の堂乾元二年碑(1303

鎌倉時代の板碑嶋の堂境内には、乾元2年(1303)の紀年銘が刻まれた鎌倉時代末期の供養碑(板碑)が建つ。この板碑には「今此の三界は、皆是れ我有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」などの願文が刻まれている。嶋の堂広泉寺の僧が子息の追善供養のために造立したと考えられている。板碑は、地域の有力者である武士や僧が造立する例が多い。嶋の堂境内に建てられた板碑は、文字資料が少ない中世紫波地方において、当時の地域の歴史や人々の宗教観を読み解くことができる貴重な資料である。町指定文化財である。


鎌倉時代の板碑