斯波氏の時代コース巡り

F 板碑に込められた極楽浄土への祈り


箱清水板碑群
霊場と信仰  霊場とは人々を救済し信仰を集めた神仏の霊験あらたかな土地で、神社・仏堂などがたたずむ神聖視された地である。板碑の造立によってそこが聖地化され、この世と彼岸とを結ぶ通路と観念されたのだろう。鎌倉時代に仏教信仰は在地にも飛躍的に浸透し、板碑は彼岸浄土への往生を願って造られたが、その造営者は領主層や有力農民に限られていた。民衆の仏教信仰は鎌倉仏教の影響を受け、来世での救済より現世での利益が重視されていく。故人の遺骨と向き合い、その遺骨を確認できる墓標の出現によって板碑はしだいに衰退していく。 



箱清水板碑群
武士の極楽浄土への祈り  板碑の登場は、鎌倉時代初期の朝廷と武家政権の間で生じた「承久の変」を経て、幕府政治の影響が地方に及ぶ時期とほぼ重なる。板碑が造立された背景は、常に死と直面する武士が死に対する不安、生きるため人を殺傷する罪の意識などが「阿弥陀仏にすがれば死後、極楽浄土へ往生できる」という浄土信仰と結びついて、とくに武士層に広く受け入れられたと考えられている。このため鎌倉御家人の所領がある関東地方に多く分布し、生きている間に自分自身の死後の功徳とする逆修供養も行われた。             



東長岡永仁三年碑(1295
紫波町の板碑  紫波町の板碑は、箱清水板碑群のほか赤沢板碑群など、古代寺院の周辺に多くみられる。金田(志和土舘)でも群として存在するが、「東長岡永仁三年碑」(1295)、「南日詰乾元二年碑」(1303)、「二日町嘉元三年碑」(1305)などは孤立して建つ。これらの板碑は小型の自然石を用い、一尊だけの種子(梵字)形式が多い。赤沢の嘉暦4年(1329)碑と元徳3年(1331)碑の2基は、いずれも僧と思われる願主名や紀年銘が確認できるが、願主名や紀年銘が刻まれた板碑は意外に少ない。       



嶋の堂板碑群
なぜ北年号が多いのか  文保2年(1318)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、元徳3年(1331)に元弘元年(南朝)と改元し、直後に倒幕の兵を挙げた(元弘の乱)。南北朝時代の志波郡北上川東部は南朝の志波河村氏が統治した地域であるが、赤沢の元徳3年(1331)碑は、この段階では南朝年号を用いていない。志波の河村一族は、南北朝が合一される以前の延文年中(1356〜61)には、北朝方の高水寺斯波氏に臣従したとされ、紀年銘がある板碑はすべて北朝年号である。紀年銘のない板碑には南朝勢力が造立した板碑があるかもしれない。