斯波氏の時代コース巡り

⑥ 北条館跡


北条館跡出土遺物
城の沿革  北条館は、その名称の由来を含めて築城年代や造営者は今のところ不明である。天正20年(1592)の盛岡藩の「諸城破却書上之事」では、「肥爪 平城 破 信直抱 代官 川村中務」と記録されていることから、斯波氏の家臣日詰氏の城館である「肥爪城」とする考え方がある。『志和軍戦記』には、斯波氏家臣として日詰政五郎・日詰大内蔵等の名を挙げているが、関連性は定かではない。他方、遺跡の性格は不明であるが、志波郡を統治していた樋爪氏の「比爪館」とは別の樋爪氏一族が住んでいた居館跡とする考え方もある。


北条館跡出土遺物
遺構・遺物の概要  

北条館跡は紫波南大橋の西岸近くの微高地上に位置し、東西180m、南北250mの規模である。北条館跡は、北上川緊急治水対策事業に伴う発掘調査が実施されており、これまで平泉藤原氏の時代である12世紀の建物跡、土坑跡、跡などの遺構や国産陶器・中国産磁器などの遺物、北条館跡が城館として機能していたとされる戦国時代(1516世紀)を中心とする竪穴建物跡や掘立柱建物跡、堀、溝、炉跡、土坑、柱穴状土坑などの遺構、国産陶器、中国産磁器、刀装具などの⾦属製品、銭貨(など)などの遺物が検出されている。




北条館跡出土遺物
12世紀の遺構  北条館跡の調査では、平泉の最初期(1100年頃)のかわらけ(素焼きの土器)が出土している。南日詰大銀Ⅱ遺跡では、比爪館周辺で出土する赤みを帯びた12世紀の「かわらけ」のほか、中国産磁器、常滑・渥美産の国産陶器が出土しており、城内Ⅰ遺跡とともに北条館と密接な関連があったと想定される。北条館跡は、西はあずま海道(街道)や館の東側を北上川やその支流である平沢川が南流し、水陸交通の要地に位置する。比爪館を中心として現在の小路口や大銀など北上川西岸まで比爪の都市域が広がっていた可能性を示している。



北条館跡案内標柱
北条氏  

北条館の名称の由来は館主名に由来すると考えられる。土着の地侍ではなく、奥州合戦後にこの地方に土着した一族、斯波氏家臣の一族であったかもしれない。鎌倉幕府あるいは足利(斯波)氏が樋爪氏の動向を観察するために置いた監視役が土着したことも想定される。紫波町では、北条姓は志和や北日詰に多い。高水寺斯波氏が下向する際に北条を名乗る一族が随伴した可能性も考えられる。金田の北条氏は、国から下り、甲斐(貝)志田を名乗っている。戦国時代の高水寺斯波氏家臣に貝志田や貝志田与三がみえる。