斯波氏の時代コース巡り

D 荒山合戦を伝える覚王寺と大日堂


大日堂
寺院の由来  寺伝では、戦国時代の天正10年(1582)、前田利家に修験道場石動山を焼かれた天台宗恵我法師が10数年の年月を要して志波郡を安住の地として探し当てたという。寺伝は、恵我は慶長3年(1598)に円学院(覚王寺)を中興開山したと伝える。はじめ桜町村中桜に仮住居し、(北)日詰村に移転・開山したと伝える。盛岡藩の記録では、江戸時代には大日堂は、円学院を別当とする修験持ち社堂として分類され、慶安年中(1648〜52)の再興の棟札はあるが由緒は不明とする。円学院は、嘉永3年(1850)に山寺号を阿吽山覚王寺に改めている。 


覚王寺門柱
神仏習合  神棚や仏壇が同じ屋根の下に同居している姿は今でもみられる。かつて本地垂迹という思想によって「神は仏が変身した姿」と理解された時代があった。在来の神が存在した我が国に後発である仏教が、ある神を特定の仏菩薩の垂迹(姿を変えた仮の姿)であるとし、仏菩薩をその神の本地であるとした。「東照大権現」は、薬師如来という「本地」が徳川家康という「垂迹」として現れ、「権現」という神様として祀られる。このように神と仏が習合するという仏教優位の思想は長らく続いたが、明治期の神仏判然令で分離され各々独立した。  


覚王寺五輪泥塔
覚王寺五輪泥塔  覚王寺には鎌倉時代に制作されたとみられる古い五輪泥塔(高さ12p)が伝わっている。仏教では万物をつくる五つの要素である地・水・火・風・空(五大)を五輪と称し、この五大を象って作られた塔が五輪塔である。平安時代末から供養塔、供養墓として造立された。泥塔とは、泥土を型抜きにして塔形に成形して焼成したもので、土で造形された仏教作善の一つである。円学院を開山した恵我法師が「石動山・荒山合戦」の戦死者を弔うための位牌と伝えられている。当地方では極めて珍しく、町指定文化財である。         


大日堂境内の板碑群

新たな布教の地  北陸の石動山天平寺は、1000年以上の歴史をもつ霊山である。中世の最盛期には360の院坊と約3000人の衆徒がいたとされる。織田信長によって多くの寺領を失った石動山は、天正10年(1582)の本能寺の変を機に上杉景勝の支援を受け、七尾畠山氏遺臣と結んでその奪還をめざして蜂起した。当時の能登領主である前田利家は、佐久間盛政とともに天平寺を焼き打ちにし、凄惨な弾圧を行った。恵我法師はこの弾圧を逃れ、新たな布教の新天地を志波郡に求めた。「石動山・荒山合戦」は志波郡にもその影を落としている。