斯波氏の時代コース巡り

C 赤石明神と呼ばれた志賀利和気神社


志賀理和気神社の「赤石」
赤石大明神  志賀理和気神社の名称はかなり以前に消滅し、社名が「赤石大明神」に変わっているが、その時期は定かではない。『光林寺起志』によれば、赤石大明神の祭祀は別当寺である遍照寺や俗人(一般人)、光林寺(花巻市)が担っていた時代があった。『篤焉家訓』には、「別当は寺林の光林寺也(中略)・・・神体の石は光林寺に持差置候よし」と記録されている。赤石大明神は長い間、志賀理和気神社の後身と位置づけられていた。領主斯波氏の保護を伝えるが、室町時代後期から戦国時代に経済基盤を失い、荒廃してしまったらしい。    


志賀理和気神社
遍照寺  遍照寺は、赤石大明神の参道北側にあった。鎌倉時代からの存在を伝えるが、沿革などについては不明である。『光林寺起志』では、元享3年(1323)頃、天台宗から時宗に改め、光林寺の末寺になったという。『光林寺末寺縁起』によれば、過去帳に正中元年(1324)に没した遍照寺住持に「赤石乗阿」の記載が見え、すでに赤石の名称が使われていたことを示す。元和7年(1621)に住持が病死して廃寺になったが、俗人別当によって継承された。この間、赤石大明神が再建され、享保8年(1723)に光林寺が遍照寺を再興し、別当職を相続した。   


光林寺本堂(花巻市石鳥谷町)
永享の乱  中世の志賀理和気神社の推移は、『光林寺起志』などによってその一部が知られるだけである。古代律令制の崩壊以後、国家の保護を受けられず衰退した式内社が多く、志賀理和気神社も例外ではなかった。室町時代に高水寺斯波氏が社殿を再興し、社領を寄進したと伝えるが、盛岡藩の記録によれば、戦国時代を経て世人から忘れ去られ荒廃していた事実が知られる。永享7年(1435)、和賀氏と家臣煤孫氏との不和が斯波・南部氏と煤孫氏を支援した稗貫氏との合戦に拡大し、光林寺が焼き討ちにされた。これも衰退の要因の一つかもしれない。



志賀理和気神社「南面の桜」

南面(みなおも)の桜  桜並木となっている長い参道は、春になると古木のヒガンザクラが咲き誇る。春彼岸の頃に花を咲かせるヒガンザクラは、江戸彼岸・東彼岸ともいわれ、寿命が非常に長い。この神社が鎮座する桜町は、当地に住んだ桜町中納言が村内に桜を植えたことが地名の由来と伝わるが、水神に関係するかもしれない。参道入口の左側にある樹齢700年ともいわれる「南面の桜」には、古くから伝わる恋物語があり、「縁結びの桜」と刻まれた碑が建っている。この恋物語を素材に英語と日本語で書いた『ももかと桜の木』が出版されている。