斯波氏の時代コース巡り

B 日詰町発祥の地に建つ来迎寺


習町の南方に発達した日詰町
日詰町発祥の地習町  桜屋阿部氏の家伝は、高水寺斯波氏は城下を整備する際に町人阿部善四郎に命じて、のちの日詰町の開発を指示したと伝える。善四郎は、城下南方の外縁に位置する区画に2000坪ほどの町場(習町)を整備して自らの屋敷も構えた。来迎寺の移転もその一環と考えられる。習町は日詰町では唯一東西に延びる幹道を基軸に、道路を挟んで町組が構成される両側町として発達した。藩政時代に井筒屋・美濃屋・伊勢屋などの領外商人が習町の南方に店舗を構えると、日詰町は郡内一の商業の町として発展した。習町は日詰町発祥の地といえる。                 


枡形に位置する来迎寺
枡形に位置する来迎寺  高水寺城や高水寺の門前は、地名から定期的な市の開設があったと考えられる。軍事・生活需要に応じる諸職人や商人が集住する郡山三町(日詰・二日町・下町)と呼ばれる町場が形成され、近世城下町に発展する基盤となった。奥州道中は旧仲町を北上すると来迎寺の手前で左に直角に曲がる「鍵の手」(桝形)に突き当たる。この枡形は高水寺城の南側の防備として道路を屈曲させ、前方を遮断して遠見ができない道路として戦略的に設計されている。来迎寺は城下南方の防衛線の一画を担う軍事的機能が期待されたのだろうか。      


来迎寺境内
桜屋(阿部)善四郎  桜屋の始祖は河内国(大阪府)の住人であったが、志波郡桜町村に落ちのび、阿部氏を名乗って代々この地に定住した。家伝によれば、鎌倉時代末期に桜町村に配流された桜町宰相が同家に寄寓した際、「桜」の一字を賜わり、「桜屋」を屋号にしたという。文明年間(1469〜86)に高水寺城主斯波氏の命によって桜町村からのちの日詰町に移住し、習町を開発した草分け的な存在とされる。来迎寺は、寺伝では天文年中(1532〜55)に佐比内村横町から桜町村に移転して紫雲山来迎寺と称しているが、阿部氏や渡辺氏の関与が想定される。 


来迎寺本堂


郡山  郡山は、日詰町・二日町(上町)・下町の総称であり、高水寺城下の二日町を中心に形成された町場である。高水寺城下として発展した郡山三町は、奥州道中の整備や北上川舟運の発展に伴い宿駅や郡山河岸が整備された。郡山は、宿場町と港町の二面的な機能を併せもち、藩内では花巻・遠野・三戸などと同じように地方統治の拠点として城代が置かれた。郡山城代の支配区域は、志和郡の7代官区(およそ紫波町・矢巾町地域)に大迫代官区を加えた8代官区であるが、藩政が確立していく過程で城代制は廃止になり、代官制に移行していった。