斯波氏の時代コース巡り

A 城郭跡に建つ勝源院

絵図に描かれた勝源院
近世初期に再興された勝源院  志波郡の古刹・名刹といわれた高水寺・大荘厳寺・本誓寺・広福寺・源勝寺・新山寺の六か寺は、近世初期に盛岡城下に移転した。その損失を埋めるかのように多くの寺院が相次いで建立された。勝源院もその一つである。寺伝では、高水寺斯波氏の帰依を得て開山し、斯波氏没落後の慶長16年(1611)頃に花巻雄山寺の末寺として再興したとするが、平安時代末期に創建されたとの伝承もある。再興当初は蟹沢庵と称していた。雄山寺は花巻郡代北松斎や新渡戸稲造を輩出した新渡戸家の菩提寺である。             


勝源院本堂
秀吉に接近した三戸南部氏  天正13年(1585)、豊臣秀吉は九州の戦国大名に戦国争乱の原因になっている領土紛争の即時停止を求める惣無事令を発し、翌年には関東・奥羽の全域に同様の命令を下した。天正16年(1588)に三戸南部氏が高水寺斯波氏を攻略した合戦は、この惣無事令に違反していることになる。三戸南部氏はなぜ成敗の対象にならなかったのだろうか。三戸南部氏はすでに加賀国前田利家を通じて秀吉への取次を依頼し、豊臣政権下の大名として組み入れられていた。加賀国への使者は後に花巻郡代となる北松斎である。          


勝源院庭園
城域内に建つ勝源院  高水寺城は、旧紫波・岩手郡の中世城館の中では最も巨大な城館の一つとされる。その城域は南西に連なる向山、吉兵衛館跡(中野館跡)から国道4号線を跨いだ戸部御所まで連郭式に続き、勝源院の寺域を含む広大な範囲と考えられている。吉兵衛館の周辺には廃寺になった能勝寺や勝源院の前身である蟹沢庵があったとされる。また、西側の国道4号線の周辺には複数の寺院が境内を構える。斯波氏は城郭の北側や西側尾根を含む一帯に寺院を集積したと考えられる。本誓寺を彦部から移転させたのもその一環であろう。


勝源院門前の濠
西御所  現在の勝源院の境内の西側後背地には、二重の空堀跡が確認されている。『奥南旧指録』は、隠居の別所として古代中国の官庁名である戸部を冠した「戸部御所」の存在を伝えている。『奥羽永慶軍記』は「西御所」の存在を伝えている。『杜陵古事記』によれば、西御所は「蒲の沢の堀向、西に見ゆる柵にて日詰より西にあたる」とする。蒲の沢は現在の勝源院の山門付近の名称とされる。西御所と戸部御所は同一施設とする考えもあるが、別施設であった可能性も否定できない。それを解明するためには今後の発掘調査を待つしかない。