斯波氏の時代コース巡り

P 河村氏の拠点・大巻館


大巻館跡遠景
館主河村氏  河村秀清は、岩手・志波・稗貫郡のほかに、名取(宮城県)・耶麻(福島県)の数郷を与えられたらしい。これらの地から河村氏の後裔とされる岩手・志波の河村党や茂庭河村氏などが在地豪族として成長した。河村秀清の居館跡とみなされる城館が県内外にも複数存在する。また秀清は「承久の変(乱)」で武家方として活躍している。このため、大巻には現地代官が派遣され、間接的に統治された可能性が高い。志波河村氏の初期の拠点遺跡はまだ明らかになってはいないが、後年、大巻館には秀清の兄義秀の孫貞秀が配置されたと伝えられている。                


大正園跡

館の概要  大巻の地名の由来は定かではないが、大きな牧場(大牧)の存在が想定される。武士層の重要な生業であったと考えられる。大巻館は、高水寺城の南東にあり、三重の空壕と土塁などによって構成される。現在の大巻館跡は戦国期の遺構と考えられる。主郭とされる北側の最頂部の郭は、東西30m、南北70mで腰郭がめぐる。南郭は段状になっており、中ほどに空堀が残存している。この館跡は大正初期に公園(大正園)として改修・整備されており、改修以前の状態は不明である。             



大巻館跡北側に建つ千手観音堂


河村党とは  志波・岩手両郡の北上川東部に河村秀清の後裔と称する大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・玉山・下田・渋民・川口・沼宮内氏などの諸氏が地名を名字として名乗り、この地方の有力武士団に成長した。これらの諸氏は「河村党」と呼ばれた。志波河村党は、所伝の系図では河村秀清の系統のほか兄義秀の系統も含んでおり、出自に関しては不明な部分が多い。当初、南朝に与していた志波河村氏は、南朝諸氏の転向・衰退とともに没落し、その多くは高水寺斯波氏の家?団に組み込まれ、高水寺斯波氏の支配は志波郡一円に及ぶようになった。



大巻館跡主郭

北朝に転じた志波河村氏  『奥州平泉文書』によれば、南北朝期に平泉を支配した足利方は、康永3年(1334)、志波郡乙部村を平泉中尊寺別当領として寄進している。これは北朝方の勢力が志波河村氏の一党が支配する志波郡北上川東部まで及んでいたことを示している。志波河村一族が南朝方として史料に登場するのはこの頃からである。志波河村氏は、根城南部氏・滴石氏らとともに南朝方に与していたが、南朝方の結城氏が一転して北朝に転じたことから南朝方は衰退した。延文年中(1356〜61)には、河村一族は高水寺斯波氏に臣従するようになった。