斯波氏の時代コース巡り

O 真宗を布教した是信房の廟所


是信廟所
是信とは  是信は、和賀郡を本拠に浄土真宗を布教したことから、「和賀の是信房」と称され、その門流は「和賀門徒」と呼ばれた。関東布教時代の親鸞の門主の名前などを列記した「親鸞門侶交名牒」の24人中10席目に是信の名がみえ、親鸞の高弟とされている。是信の出自については、盛岡や松代(長野県)本誓寺伝では京都の貴族吉大納言藤原信明と伝え、秋田善証寺伝では源頼政のひ孫源宗房と伝える。地元には同時代の根本史料や是信自筆の文書類は伝わっておらず、後世の寺誌や高僧伝などがその事績を伝えるのみで不明な部分もある。   


是信廟所

是信の軌跡  是信が和賀郡で布教を開始した時期は、多くの書は建保3年(1215)と伝える。親鸞が常陸国笠間郡稲田に草庵を結んだのは、建保2年(1214)以降とされていることから、布教は早くてもその4〜5年後と考えられる。是信は和賀郡に寛喜院(一説には清浄院)を構え、和賀郡・出羽国仙北郡六郷(秋田県六郷町)を中心に布教したと伝わる。和賀地方には「上人塚」など是信に関する旧跡や伝承が残されている。是信や和賀門徒による教化は、東北・関東・中部地方まで及び、出羽国(秋田)善証寺、 信濃国(長野)松代本誓寺などを開いた。     


南無阿弥陀仏六字名号碑


是信はなぜ東北に  是信が浄土真宗を布教した時代は、北条氏が鎌倉幕府の実権を握り執権政治が展開された時代である。是信はなぜ東北を布教の地に選んだのだろうか。鎌倉幕府の成立は、文化の中心が旧仏教の本拠である京都以外の東国に誕生したことを意味する。平泉藤原氏は旧仏教に基づく理想世界の実現を目指したが、祈祷や学問中心の旧仏教は武士や民衆には門戸が閉ざされていた。仏教を平易に民衆に伝え、一つの道(念仏・題目・禅)によって救われると説く鎌倉仏教は、宗教の末開拓地である東北地方を布教の新天地としたのだろう。


南無阿弥陀仏六字名号碑

まいりの仏と和賀門徒  「まいりの仏」は、県内ではオシラサマと並ぶ代表的な民間信仰である。旧暦10月の一定の日に阿弥陀如来や聖徳太子などの掛軸などを祀る家や御堂に同族・縁者が集まり、念仏を唱え飲食をする信仰である。寺がなかった時代に死者がある家に「まいりの仏」の掛軸を吊るし、野辺送りの引導仏として棺に添え、極楽往生を祈った。このような浄土系の民間信仰が興隆した背景には、是信とその門流である和賀門徒の活躍があったと考えられている。この信仰が盛んな地域は、和賀門徒が布教した紫波・稗貫・和賀地方などと重なる。。