斯波氏の時代コース巡り

M 河村氏の城館・佐比内館跡


佐比内館跡曲輪
紫波町の城館  県の文化財調査報告書(第82集)によれば、旧紫波郡には約72の中世城館跡が確認されており、郡内では紫波町の城館は51を数え約7割を占める。城館数が多い理由として、鎌倉時代に志波郡に所領を得た関東御家人が河川を利用した段丘や丘陵などの要害堅固の地に城館を構えたことと、南朝方の志波河村氏と北朝方の斯波氏が志波郡を北上川の東西で二分して統治する時代があったことが考えられる。南北朝時代の争乱を経て、戦国時代へと変化する戦乱状況のなかで、防衛機能の一層の強化が求められ複雑な郭(曲輪)が構築された。     



佐比内館跡曲輪(拝殿前方)
館の沿革  築城時期は不明である。平泉藤原氏の直轄地とみられる志波郡北上川東部は、鎌倉御家人河村秀清一族によって統治された。初期の拠点遺跡はまだ明らかにはなってはいないが、統治拠点として大巻館を構えたと伝わる。「藤原姓河村氏之系図」によれば、志波河村氏の宗家は、南朝方の衰退や高水寺斯波氏の下向によって没落、大巻館主河村秀基は高水寺斯波氏に仕え、至徳元年(1384)に先祖相伝の大巻の地を離れ佐比内館に移転したとする。その後の河村氏の動向は不明であるが、天正年間(1573〜79)には河村喜助が城主であったと伝える。                  



佐比内館跡(拝殿後方)

館の概要  佐比内館跡は、尾根続きの北側を除く三方は急峻な地形である。三方には複数の帯郭が続いている。近くには古館という地名があるが佐比内館との関係は不明である。山頂部は熊野神社の再建のためかなり削平された形跡がある。主郭には一段と高い平坦地が残っており、北側を除いて4段の郭が続いている。北側背面には大きめの二重空堀が残されている。北西には幅5〜6mの内堀と土塁、尾根の基部を断ち切る幅3〜4mの外堀が残っている。その城館跡には、慶長10年(1605)に熊野神社が鎮座し現在に至っている。



佐比内館跡(熊野神社鳥居)

館主河村氏  志波郡の河村宗家は、南朝方の衰退とともに南北朝末期に北朝方に転じている。「藤原姓河村氏之系図」によれば、河村三郎秀基は応永3年(1396)に高水寺斯波氏に仕えて佐比内村と木更付村(旧大迫町亀ヶ森)を給与され、本姓である河村氏を継続して名乗っている。その後の事績については史料を欠いているため詳細は不明である。天正16年(1588)、北奥羽の覇権をめざす三戸南部氏は、北上川中流域へ侵攻し高水寺斯波氏は没落した。佐比内館の河村秀政は、高水寺城を放棄して敗走する斯波詮直を山王海へと落ち延びさせたと伝えている。