斯波氏の時代コース巡り

J 牛頭天王と呼ばれた長岡八坂神社


八坂神社参道
八坂神社とは  八坂神社は、素戔嗚尊(明治維新以前は牛頭天王)を祭神とする祇園信仰の神社である。祇園信仰は、疫病除けを中心とする牛頭天王に対する信仰である。疫病で多くの死者を出した京都で66本の鉾を立てて霊魂をなだめる「祇園御霊会」が6月の例祭として定着し、天延3年(975)には朝廷の奉幣(供物などの奉献)受ける祭に発展した。後の祇園祭の祖型になっている。祇園は京都を代表する花街として知られるが、もともとは仏教の開祖である釈迦が説法を行ったとされるインド北部の仏跡「祇園精舎」に由来する。



八坂神社拝殿
牛頭天王とは  牛頭天王は、薬師如来や素戔嗚尊を本地仏(神の正体とされる仏)として、仏が悪疫を防ぐ神の形を取って仮に現れた(垂迹)もので、八坂神社に祀られる。『牛頭天王御縁起』によれば、牛頭天王は疫病を広める行疫神・疫病神として恐れられたが、祀り鎮めることで疫病から逃れられるという除疫・防疫の神、さらには万能的な神として祇園社のみならず各地に勧請され牛頭天王信仰が広がった。牛頭天王は、多くの神社で祀られていたが、明治期の神仏判然政策によって祭神を素戔嗚尊に変えられた歴史がある。              


八坂神社拝殿の扁額
斯波氏も崇敬した牛頭天王  多くの城館では、築城の際に城や領民の守護を目的に城郭内に神が祀られた。高水寺城跡には、諏訪平・八幡平・天王平・観音平などの名が残っている。かつてここには諏訪大明神社(諏訪平)・鳥飼八幡宮(八幡平)・牛頭天王社(天王平)などの鎮守社があり、高水寺斯波氏が崇敬していたと伝わる。『祐清私記』によると、近世初期に盛岡藩主南部重信が郡山城(高水寺城の後身)の諏訪大明神社を戌亥(=北西)の地に遷宮したという。現在は3社とも走湯神社の境内社になっている。



承慶橋説明版(高水寺城跡)
承慶橋の架設  稲荷街道を整備した盛岡藩主南部利済は、天保15年(1844)に城山東側の北上川に承慶橋を架けた。『紫波郡誌』では、藩主が志和稲荷社の帰路に長岡牛頭天王社(八坂神社)を参詣するための事業とするが、北上川で分断された東西地区を結ぶ重要な役割を果たした橋である。川中に舟型の中島を築いてその双方に土橋をかける工法で、中島の構築には破却された郡山城の石垣類が利用された。左右には高欄が設けられ、その柱には銅製の擬宝珠がつけられた。この橋は、郡山の豪商が私財を投じて普請したものである。