樋爪氏の時代巡り

G五郎沼の中島にあった嶋の堂


地元の伝承  地元では次のような所伝がある。源頼義・義家父子が前九年合戦の戦勝を祈願し大荘厳寺を建立した。建久2年(1191)、源頼朝が奥州合戦で廃墟になった堂宇の一部を利用し五郎沼観音嶋に堂宇を建立し、樋爪俊衡の持仏である観音像を奉祀した。享保4年(1719)、大洪水のため五郎沼が決壊し、流出した千手観音像が五郎沼の南西で発見され、その場所(小路口公葬地北東)に堂宇を再建した。享保17年(1732)、小路口家当主や広泉寺住職らが盛岡藩主に観明院を嶋の堂の別当とするよう嘆願した(「嶋の堂の起源」小路口家文書)。



嶋の堂の由来  嶋の堂の由来については、次のような所伝もある。奥州合戦(1189)後、源頼朝によって旧領を安堵された樋爪俊衡が一族郎党の供養のため、廃墟後の比爪館跡の一部(五郎沼中島か)に堂宇を建立し、持仏である千手観音菩薩を奉納したとする(「上池家文書」)。その後、堂宇は領主や庇護者の保護を受けることなく荒廃したらしい。盛岡藩の記録では、「古堂地は観音嶋五郎沼より十五間(1.82m×15)程西の谷地にあり、何年の頃か堂地だけになり、観音嶋と昔から呼ばれていた」と古堂地の所在を伝えるが、その由緒は不明とする。



千手観音菩薩像  嶋の堂は、現在でも千手観音像を本尊として祀っている。本尊仏は蓮華座に坐し、尊像・台座・唐草舟形光背が一体で、観音開きの円筒形厨子に納められている。小型の厨子入り仏像として造られているため像体が小さい。一面、左14臂(ひ)、右19臂の姿で、室町時代の制作と考えられている。この観音像の来歴は定かではなく、当時の有力者層によって当地に持ち込まれたと考えられている。工芸的な価値だけでなく、紫波町の修験や神仏習合などの歴史を知る上でも貴重な学術的な資料であり、町指定文化財になっている。



巡礼地嶋の堂  観音菩薩は、略して「観音様」とも呼ばれ、人々の悩みや苦しみを救い、願いを聞いて安楽を与える仏と説かれている。観音様は悩みや苦しみに応じて33の姿に変身すると説かれ、「三十三所霊場」のもととなった。千手観音は、地獄に落ちた者を救済する観音といわれる。千手観音が祀られる嶋の堂は、当国三十三所・陸中八十八所・奥羽三十三所の三か所の霊場札所として長い歴史と由緒を物語っている。嶋の堂のように三霊場の札所を兼ねる類例は全国的に少なく、それだけに広く近郷に知られ、人々の信心の拠り所となってきた。