樋爪氏の時代巡り

H結界に建つ新山神社


新山神社(奥宮)本殿

神社の沿革  地元の所伝では、大同2年(807)の坂上田村麻呂の勧請、天仁2年(1109)に藤原清衡の新山寺の創建、奥州合戦後の建久年間(1190〜1199)に源頼朝の家臣小山朝祐の創建などを伝えるが定かではない。承応2年(1653)の山火事によって18の坊社が焼失したと伝えられる。盛岡藩の記録では、新山権現は二間四面の板ふきで、由緒は不明とする。盛岡藩の地誌では、羽黒権現を崇敬していた平泉藤原氏が新山寺の鎮守として羽黒権現を勧請したとするが、吉野修験の関与や平泉藤原氏・樋爪氏以前の創建も考えられる。


新山神社(里宮)拝殿

新山神社(里宮)  奥宮の新山権現は、明治期の一連の神仏判然令によって仏教色が強い権現号をなくし、明治3年(1870)に新山神社と改めた。県の記録によれば、新山神社は明治12年(1879)段階では祭神不詳としているが、その後、稲倉魂命を祭神としている。出羽神社の祭神である稲倉魂命に整合させたものと考えられる。新山神社は、明治43年(1910)に本殿・拝殿を新築、昭和10年(1935)に里宮を建立、その後、明治100年記念事業として拝殿を新築している。陸中八十八所の観音霊場第52番札所として広く崇敬されている。




新山山頂遠景

鎮山とされた新山  かつて新山権現の別当寺として新山寺が存在した。山頂の新山神社境内にはその礎石の一部が残っている。参道周辺には18の坊舎の存在が知られており、山頂付近には堂宇跡も確認されている。赤沢の蓮華寺・古館の高水寺と同様に一大伽藍を構えていたと推定される。盛岡藩主南部家の崇敬が厚く、社領が寄進されている。盛岡藩は新山寺や新山権現が建つ新山を岩手山・姫神山・早池峰山とともに盛岡城の四方を鎮護する鎮山として位置づけ、新山寺が盛岡城下に移転し、八戸藩が成立した後も境内を盛岡藩領として掌握し続けた。


銅秋草双雀鏡(県指定文化財)

発掘された文化財  奥宮の神社境内から平安末期の銅菊花双雀鏡などの和鏡(4点は県指定文化財)や鎌倉時代の金銅懸仏(県指定文化財)などが出土している。また、境内付近から経壷と想定される12世紀後半の常滑産三筋文壺(さんきんもんこ)が出土し、経塚と考えられている。造営には羽黒修験などが関与している可能性がある。新山は、蓮華寺・白山神社・山屋館経塚が造営された東部と同じように、この地方を代表する修験霊場・山岳宗教の中心地であった。経塚は奥羽山脈を背に、結界(聖と俗を分ける境目)の機能が期待されたのだろうか。