樋爪氏の時代巡り

P新山権現と呼ばれた熊野神社


佐比内熊野神社拝殿前の鳥居
神社の沿革  『紫波郡神社明細帳』では、天正年間(1573〜92)に館主河村喜助の没落とともに熊野権現社の社殿を焼失したとする。慶長10年(1605)に大峰から佐比内館の本丸跡(現在地)に遷座したとする。寛永12年(1635)に八戸弥六郎が社殿を再建し、社領を寄進している。盛岡藩の記録では、熊野神社は江戸時代には熊野権現社と呼ばれ、別当が祭祀を執り行う修験持社堂に分類されているが、由緒は当時から不明とされている。明治2年(1869)に8神の神々を合祀し、熊野大神と改め、明治4年に熊野神社と改称した。


佐比内熊野神社拝殿

熊野信仰  熊野信仰は、和歌山県の熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を中心にした信仰である。熊野三山に祀られる熊野神は、仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、熊野権現と呼ばれた。権現とは仏が「権」(仮)りに神の姿で「現れる」ことを意味する。熊野三山の御神体は、熊野川(本宮)、神倉山の巨岩(ごとびき岩)(速玉)、那智の滝(那智)とされ、それぞれ独立した自然神信仰に死者の霊を神格化した祖先神信仰が流入し、スサノヲ命(本宮)、イザナミ命(那智)、イザナギ命(速玉)の神が割り当てられた。


佐比内熊野神社元宮

熊野神社の元宮(本宮)  社伝によれば、熊野神社の源初の形態は「夷民祭る所の神、お熊様」に坂上田村麻呂が伊弉諾命・伊弉册命の2神を合祀勧請したとする。室根神社(一関市)は、社伝では養老2年(718)に鎮守府将軍大野東人が熊野神の分霊を陸奥国に勧請した古例として知られている。年代的に合わない部分があるが、熊野神が陸奥国に勧請されていたという所伝がもつ意味は大きい。佐比内の「お熊様」の存在は、田村麻呂時代には志波地方でもすでに蝦夷征討の祈願所として熊野神の分霊が伝わっていた可能性を示すものである。


新山近くから望む早池峰山

新山大権現  熊野神社の元宮(神社発祥地)は、「新山大権現」として現在も祀られている。棟札の表面には、「奉再興新山大権現堂宮造二尺四面一宇成就處」、裏面には「天下泰平国家安全攸」、「享和元年辛酉天」(1881)、「導師喜明院牀壽」と記載されている。この新山大権現の「新山」は、熊野山に対する新山を意味するのだろうか。佐比内の周辺にはかつて「新山(しんざん)宮」と呼ばれた早池峯神社が建ち、熊野修験が関与する。遠方の山岳霊場に鎮守する熊野権現、あるいは近くの早池峰権現を遙拝所的に佐比内に勧請した可能性も考えられる。