樋爪氏の時代巡り

@『吾妻鑑』に記録された高水寺


高水寺の沿革  高水寺は、『吾妻鏡』では称徳天皇の勅願寺との伝承をそのまま伝えている。寺伝では神護景雲2年(768)の創建を伝える。しかし、当時の東北開発が及んだのは現在の宮城県北までであり、前年に伊治城(栗原市)が置かれたばかりである。このため高水寺は、志波城の鎮護や蝦夷の懐柔を図るため志波城(盛岡市)付属の官寺として9世紀に創建されたと考えられている。他方、志波城や徳丹城など8世紀後半から9世紀にかけて造営された城柵には、付属する仏教施設は整備されなかった可能性があるとの考え方も示されている。


高水寺跡から望む走湯神社
高水寺の所在  高水寺は、近世初頭に盛岡城下に移転するまで二日町の走湯神社の近くにあった。『祐清私記』によれば、「高清水寺の山を築いて社とし高水寺と号し、…その旧跡は下町の東後北上の古川の上に片山という所」にあったとする。明治期の『岩手県管轄地誌』は、「今ノ字栗木田ニアリ、後日詰舘ノ麓字片山二移ル」と伝え、高水寺の所在に変遷があったことが確認できる。高水寺は志波城・徳丹城の造営や廃止、高水寺城の築城のため建立場所を移した可能性が考えられるが、金堂等の遺跡は未だ確定するに至っていない。。


走湯神社の境内社
高水寺の運営  平家滅亡を成し遂げた源義経は兄頼朝からとされ、藤原秀衡を頼り平泉に逃避することとなった。歌舞伎の「勧進帳」では、姿に身をやつした義経が勧進帳と偽って往来物の絵巻を読み上げるがある。勧進帳は寺院の建立や修復など資金を募るための趣意書である。国家の保護を受けていた東大寺でさえ、諸国を回って再建の寄付を求めている。『祐清私記』によれば、高水寺はかつて40を超すを構えていたとされるが、奥州合戦の頃は16坊を数えるほどに低落している。高水寺の運営はだれが支えていただろうか。


走湯神社観音堂(収蔵庫)
金堂に乱入した家来  源頼朝が陣岡に宿営中、高水寺の僧侶禅修房以下16人が頼朝方の兵が高水寺の金堂に乱入して壁板13枚をはぎ取ったと頼朝に訴え出た。犯人を捜索させたところ、御家人宇佐美平次の家来の仕業であることが判明した。頼朝はその犯人を禅修房らの面前で処罰した。高水寺の僧があえて頼朝に抗議し、頼朝が家来に重刑を科した背景には、高水寺が官寺的な寺院であった可能性、あるいは源頼義・義家父子が高水寺金堂の整備に関与していた可能性を示唆しているように考えられるが、想像の域を出ない。