樋爪氏の時代巡り

I『吾妻鑑』に記録された陣ケ岡


記念碑的な陣営跡  陣岡は、胆沢城から志波城・徳丹城に至る古道に近く、古くから軍事的にも交通的にも要衝の地とされた。古代には志波城を造営した坂上田村麻呂、安倍一族と交戦した源頼義・義家、戦国期には高水寺城を攻略した南部信直、九戸一揆の鎮圧のために布陣した蒲生氏郷など、多くの武人が名を連ねた陣営と伝わる。陣岡は源頼朝による全国統一の布石の地になり、三戸南部氏が戦国大名から近世大名に成長する転機となった地といえる。陣岡は時代が中世、近世へと変わる転換期にその名が登場し、全国に誇れる陣営跡といえる。



蜂神社  蜂神社は、源義家が安倍氏を攻略する際に蜂の巣を袋に詰めて敵陣に投げ込み、混乱させて勝利し、その報恩として蜂を祀って創建した神社と伝わる。春日大社の三日月堂から勧請したとの伝えもある。この三日月堂は実在しないが、近くの東大寺の三月堂(法華堂)の執金剛神像が蜂に化身し、平将門を刺して乱を平定したとする伝説がある。『陸奥話記』には蜂の記事は見えないが、鶴が翼を広げたような「三日月形」に見える「鶴翼(かくよく)の陣」戦法が記録されている。「蜂」は、八幡社の「八」を意味するとの伝承もある。



日の輪・月の輪  陣岡の濠(ほり)跡には、太陽と三ケ月を象(かたど)った中島がある。前九年合戦の際、ここに本陣を構えた源頼義・義家は、濠の水面に源氏の旗印である日・月が金色に輝き映え、これを勝利の吉兆とみて士気を高め合戦に臨んだという。戦勝の報恩として造らせたのが日・月状の中島である。『日本書記』によれば、天皇の朝賀の飾りでは、左に日像、右に月像の旗を立てている。藤原秀衡が後にこの「日・月の中島」を修造したと伝わる。日・月状の中島は珍しく、現在もわずかながらその原型を留めている。



伝承される遺構  藤原泰衡は、逃走中に家臣河田次郎の反逆によって討たれた。源頼朝が滞在している陣岡に泰衡の首が届けられた。泰衡の首級は学術調査によれば保存状態が良かったことが確認されている。泰衡の首級は厨川柵で実検され、早々に中尊寺僧徒に下げ渡されたものと推測される。陣岡には泰衡の首を洗ったとされる井戸がある。蜂神社裏側には俗に王子森と呼ばれる古墳(円墳)があり、蜂子王子の墳墓という俗説が伝わる。さらに斯波家長が落命した将兵を慰霊するため建立したと伝わる萬亀山千鶴寺跡もある。