樋爪氏の時代巡り

A『吾妻鑑』に記録された樋爪館


比爪館跡発掘現場

『吾妻鏡』に記録された比爪館  比爪館は、樋爪俊衡の居館として『吾妻鏡』に登場する。赤石小学校が建つ史跡北西部では、御所と推測される四面庇建物や井戸跡が確認されている。北東部は儀礼・政務の場である政庁があったと推測されている。五郎沼近くの南西部には土塁状の高まりや中島状の微高地があり、浄土庭園型式の大荘厳寺が建つ寺域と想定されている。比爪館は政務や公式儀礼を行う政庁、住居である御所、寺院で構成された複合施設であり、平泉の政庁である柳之御所、御所である加羅御所、寺院である無量光院と共通する。


比爪館跡出土陶器(かわらけ)
比爪館跡の概要  比爪館跡は、東西約300m、南北約240m、面積は約5万uにも及ぶ。文治5年(1189)の奥州合戦で焼失し、その全容は地中に眠ったままである。南側は五郎沼に面し、東・西・北辺は幅10mほどの大溝が館を取り囲む。その中に屋敷・長屋・倉庫・塀・井戸など多くの遺構が確認されている。また、かわらけ(素焼き陶器)や常滑焼・渥美焼など、多数の国産陶器・中国産磁器なども確認されている。これらの遺構や出土品は、同時代の他の地域の権力拠点よりも卓越した質と量を誇り、樋爪氏の権威や格式を物語っている。

比爪館跡出土 須恵器壺(左)土師器瓶(左)


日詰と樋爪氏  平泉藤原氏初代清衡の弟とされる清綱一族は、現在の紫波町南日詰に城館を築き、清綱の子俊衡は地名である比爪(ひづめ)を名字とし樋爪を名乗った。現在、日詰という地名が残されているが由来は定かではない。樋爪氏は奥州合戦で一時逃亡を試みたが、後に投降した。俊衡だけは所領を安堵され比爪に住むことが許されたが、残る一族は各地に流罪となった。その後の俊衡の消息は記録がなく不明である。俊衡は比爪館の大荘厳寺で平泉藤原氏の4代泰衡の遺児秀安を育て、後に秀安は俊衡の娘璋子を妻にしたという所伝がある。



南日詰小路口T遺跡出土陶磁器
広がる都市域  比爪館跡周辺の遺跡は、平泉以北における中世都市の復元の可能性を残している重要な場所といえる。大銀・小路口・北条館遺跡などの発掘調査によって、比爪館を中核とする都市域の広がりや往時の町割りが確認されつつあり、都市構造の解明が一段の進歩をみせている。比爪館の外縁である奥羽・北上山系には寺社や経塚が集積し、平泉関連の遺産が多数存在する県内有数の地として注目されている。これまでの点的な調査成果を面的に追究することにより、樋爪氏の経済構造や支配構造、民衆の姿などの全体像が見えてくる。