樋爪氏の時代巡り

F夜泣き石と五郎沼経塚


五郎沼の夜泣き石  日本各地に伝承されている「泣き石」の伝説の中には、殺された者の霊が石に乗り移って泣き声をあげ、あるいは石自体が怪音を出すといわれる伝説が多い。五郎沼は決壊することが多かった。村人は水神の怒りを鎮めるために人柱を立てることにした。農家の娘が選ばれ土手に生き埋めにされた。この碑は村人が人柱とされた娘を供養するために建てたという。土手の決壊はなくなったが、石の近くを通ると悲しげな娘の泣き声が聞こえ始め、いつしか「夜泣き石」と呼ばれるようになった。人身御供の悲しい伝説である。



五郎沼の泣き石  佐々木喜善の作品に次のような伝承が採録されている。五郎沼から掘り出された古碑が土手に放置されていた。村人が金毘羅塔を建てる際にその古碑を土台石にした。古碑は「自分は仏の供養として建てられたが土中に埋められた。沼から掘り出されたが今度は金毘羅石の台石にされたことが残念で堪らない。どうか元の場所に戻して欲しい」と泣きながら訴えた。地元ではこの板碑を「泣き石」と呼ぶ。遠野では「自分は位の高い石なのに、他の大石の下になるのは残念」と言って泣き明かす武蔵坊弁慶の泣石伝説が伝えられている。



五郎沼の経塚  五郎沼の夜泣き石(延文六年供養碑)の南方に五郎沼経塚(比爪館経塚・南日詰経塚)が造営されていた。経塚は霊地や聖地とされている山頂付近や神社境内に造営されることが多く、仏教の作善行為の一つである。この経塚は、国道4号線に接する五郎沼南東岸の小高い丘にあったため、長らく後期古墳と考えられてきた。仙台藩の地誌では、蛇蝎堆(だかつつか)と記録され、地元では蛇塚と俗称されていた。昭和9年(1934)に郷倉(村共同の備荒用倉庫)を建築する際に経筒が出土したことから経塚と考えられている。



出土した珠洲産の壺  経塚は、仏教の経典を入れた陶器類を土中に埋めた塚である。釈迦の入滅後、釈迦仏に代わってこの世を救う弥勒仏が現れるまで経典を残すことを目的とした。タイムカプセルの一種といえるが、極楽往生・現世利益を目的として造られるようになった。この経塚は、素焼きと青銅の二重経筒に経文が納められ、経瓶の蓋に魔除の短刀があったという。経筒の外容器である珠洲(すず)産の壺はほぼ完形品である。比爪館跡に近く、仏教作善として樋爪氏あるいは大荘厳寺の僧徒が造営したと考えるのが自然である。