樋爪氏の時代巡り

L北方を守護する毘沙門天


毘沙門天立像(県指定文化財)
毘沙門天とは  毘沙門天は、仏教では四天王の一人に数えられる。四天王がそろうときは多聞天、単独のときは毘沙門天と呼ばれる。中国において武神としての信仰が生まれ、密教では北方を守護することから戦いの場には軍神として祀られた。その像容は怒りを表現する憤怒(ふんぬ)の形相で、武将風の姿で表現される。右手に宝棒または鉾(ほこ)をとり、左手に宝塔を捧げることが多い。戦で敵に囲まれたとき、地天女は兜跋(とばつ)毘沙門天を地中から押し上げて登場させ危機を救ったとされる。まるでアニメのような光景である。


毘沙門天立像(県指定文化財)

赤沢の毘沙門天立像  腰をやや右に振り、穏やかな動きのある姿態で像高は約174cm。12世紀頃の制作と推定されており、平泉藤原氏の時代と重なる。この像は、かつて赤沢薬師堂に安置されていたが、ほぼ同時代の「四大明王像」(県指定文化財)とともに赤沢正音寺の収蔵庫に保管されている。薬師堂以前の安置場所や毘沙門堂の存在については不明である。立花毘沙門堂(北上市)の毘沙門天立像(市指定文化財)と様式的に類似する。小像ながら地方色が強く、紫波地方の毘沙門天信仰を知るうえで貴重な像である。県指定文化財である。


毘沙門天立像(県指定文化財)

毘沙門天街道  奥州市藤里、北上市立花、花巻市成島の毘沙門堂の兜跋毘沙門天立像は、いずれも東北地方を代表する毘沙門天立像であり、国の重要文化財に指定されている。毘沙門天像がたどった道程は、「毘沙門天街道」と呼ばれる。平安初期に坂上田村麻呂が北進した足跡でもあり、北上川流域に集中する。『吾妻鏡』には、源頼朝が奥州合戦の帰途に多聞天像(毘沙門天像)が安置された「田谷窟」に立ち寄ったことが記録されている。坂上田村麻呂の事績や伝説は、奥州合戦(1189)以前からすでに伝えられ、現代に継承されていることになる。


毘沙門天立像(県指定文化財)

赤沢に祀られた毘沙門天立像  毘沙門天像は、東北開発を進める際に北方鎮護の軍神として、あるいは英雄化された坂上田村麻呂の化身として祀られた。この毘沙門天像は、赤沢の正音寺の「四大明王像」と同じように、個人的な現世利益のためというより国家安穏を祈願する仏像として祀られたかもしれない。前九年合戦で安倍氏が滅亡した後、志波地方を統治した清原氏は、前九年合戦を平定した功績で鎮守府将軍に登用された。清原氏は征夷の完遂を目的にした「延久二年合戦」(1070)などで、鎮護国家の法要を営む地位にあった。